電気ポットが連続音を放っている。
ナナミが止めに行ってカップに湯を注ぐ。
蛍光灯に照らされた魚眠洞は頭をグラグラ揺らしている。
ティーバッグを入れたナナミは心配そうだ。
「進まないね……って言ったら怒るかな？」
おずおずと言葉を発した。
「怒りたくない」
「器小さい感じだもんね」
魚眠洞は悪鬼の形相で振り返りナナミを睨みつける。
仰天したナナミが一瞬で怯えた表情を作る。
もう少しで熱いストレートティーを零すところだった。
零していたら足かどこかを火傷していたかもしれない。
魚眠洞は怒りを抑えきれない。プルプル震えている。
頭の中の冷静な部分が「器が小さいってこういう事を言うんだなァ」と頷いていた。
逆に最も原始的な部分は目の前の女をどんな風に陰湿に虐待してやろうかと想像していた。
魚眠洞は魚眠洞の歴史的現在において「勉強ができない」状態だった。
なのに大学院入試は目前に迫っている。
「あ……あはは……御免よぅ……お……お年玉もらったよね……大学生なのに……」
頭のレベルが魚眠洞と同じであるナナミが下手糞な話のそらし方をする。
「てめっ！糞アマぁ！オラぁ！」
魚眠洞の堪忍袋の尾が切れた。
ナナミは咄嗟に紅茶を机に置くが迫ってきた魚眠洞に押し倒されてしまった。
そのままベッドに倒れこむ。
ナナミの肩を握り締める魚眠洞の手に力が入る。
ナナミは痛みに顔を歪めた。
「いたたた……！痛ぁいよ！御免なさい！御免なさい……」
ナナミの目に涙が滲む。
魚眠洞は荒い息遣いのままピンボケしていた目の焦点を合わせる。
目の前の女は自分が自分の為に作り上げたシステムだ。他の奴だって皆。
どれだけ当り散らしたって、どれだけ存在を消してしまったって、自分の自由だ。
自分の為にならない自分は、いくらでも消しても良いんだ。
魚眠洞はそう思考した。
「一緒に頑張るって約束したんだもん！魚眠洞を信じるって約束したんだもん！」
女の哀願するような声が鼓膜を震わせる。
仄かな罪悪感と快楽が胸に去来する。勝つのは、どっちだ？
さらに手に力を込めるとナナミの柔らかい身体に爪がめり込んだ。
悲痛な叫び声が部屋の中に木霊した。
「痛い痛い痛い痛い！御免なさい！御免なさい……」
そのまま３０秒くらい経っただろうか。
そうしたら魚眠洞の額の真ん中で血管が切れるようなプツンという音が鳴った。
「はッ……」
そこで力のベクトルが反転。
魚眠洞は身体を反転させてナナミの隣に勢いをつけて仰向けに倒れた。
「はァ……はァ……」
ナナミが劣情を催させるような声で喘いでいる。
魚眠洞も集中力が途切れてしばらく動かなかった。
２人で荒い呼吸を繰り返しながら１分ほど静止していた。
「……ずっと昔からいるの……君の中には……歪なプライド……
きっと年とったら恥ずかしくてし方がなくなるような不恰好な形……」
汗だくのナナミが上を向いたまま呟いた。
「いくらエイリアス被せてもいなくならない。人は成長するけど
成長するって事は完全に別の物になるって事じゃない……。
皮を被る事だよ。狐の皮、虎の皮、その時の必要に応じて……」
魚眠洞はまだ呼吸が収まらないので黙って聞いていた。
「そう。君は君だ。そして何処へも行かない。私だって、いつかは君の目の届かない所に
行くだろうけど、それは消滅したわけじゃないと思う。だから消える事は、怖く……ない」
「嘘だね」
魚眠洞が切り返してきたのでナナミはギョッとする。
魚眠洞はヒュウッと口笛を吹いた。
「人間って一個の生物じゃねーだろ。ミトコンドリア、腸内細菌、エトセトラ。
そして俺も。お前は今や俺の中で一個の生物になった。人間の正体は
タンパク質じゃなくて脳内の電気信号、信号だろ？お前だって自分で考えれるんだ。
だから生物で、そうだとしたら死を怖がらなきゃおかしい」
ナナミは大きくため息をついた。
「私は自分で考えてるわけじゃない。私は魚眠洞だよ」
その瞳から輝きが一つ消えた気がした。
「……分かってるけど……」
魚眠洞が少し残念そうな顔をしたのをナナミは横目で見た。
そして自分の肩に触る。
血が滲んでいる……と最初思ったが、それは錯覚だった。
服が折れてさえいない。
魚眠洞が自分を傷つけてしまった事をもう忘れてしまったのだ。
「なかなか上手くいかないね……勉強……」
ナナミは今度は正しく話を戻した。
魚眠洞は沈黙を守る。
ナナミは辛抱強く返事を待った。
紅茶を持ってこようかどうしようか一思案。
「俺は色んな物に甘えてるんだな。世界にも隣人にもお前にも」
ゆっくり喋った。
「そうかもしれない。でも無理するのは良くないって、やっと分かってきたよね」
「本当に分かるのは、これからなんだろうな。親父がよく言ってた」
魚眠洞の父親の話が出たのでナナミはくすっと笑顔になる。
魚眠洞が自分以外の人の事を語る時は、
魚眠洞が冷静で安定している時なのだとナナミは知っている。
「投げちゃ駄目だね。投げちゃ。私もMAXバックアップするからさ」
「そうだよな。フリーターじゃMさんに二度と会えないもんな」
いつもMの話を振るナナミだがこの時は何故か少し寂しい感じがした。
生物にも電気信号にも満たない存在。そんな自分にどんな感情を抱くだろう？
「何考えてるんだろうなー。Mは」
魚眠洞の完全な独り言。
ナナミはピョンと立ち上がって机の上の紅茶を取った。
少し冷めたようだ。飲み心地良好か。
「喉乾いただろ？ちょっと飲んで良いよ。さっきは御免」
魚眠洞が言った。
ナナミは目を細めて首を斜めにする。
言われた通り、少し紅茶を飲んだ。そしてすぐに魚眠洞に渡そうとする。
魚眠洞は面倒くさそうに起き上がってカップを受け取った。
「投げちゃ駄目だなんて誰が決めたんだろうな」
魚眠洞は呟いてカップを啜った。
ナナミはニッコリ微笑む。
「魚眠洞が自分で決めたに違いないし、君はきっとそうするだろうな」
魚眠洞は少し頬を緩ませる。
「そうさな。投げちゃ駄目だ。投げちゃ駄目だ。投げちゃ駄目だ」
「逃げるのも時には勇気だけど投げちゃ駄目だ」
ナナミは調子を合わせて歌うように言った。
「ふー」
紅茶を一気に飲んでしまった魚眠洞は机の方を見た。そして目を細める。
「親父が、神様が与えた試練なんだ、って言ってた」
ナナミは目をつぶる。
「お父様は、君よりは、ずっと偉くて、色々知ってるからね」
魚眠洞の中でまた怒りの種が一つ芽吹いた。
しかし、「もっともだ」と９９パーセント思っている。
「そうだな」
「カーテン開けるね」
昨日の夜から閉めっぱなしのカーテンをナナミが開けに行った。
もう真昼。真昼なのにカーテン閉めてる。そんな人種。自分達は。
ナナミがいなかったら、その時、きっとカーテンを開ける気にはならなかった筈だ。
ナナミが自然光をバックに愛らしく笑っている。
底をついた気力と能力の深淵で、魚眠洞は次の道を照らす一筋の光を見た気がした。