魚眠洞とナナミ

第1話「魚眠洞とナナミの眩暈」

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12月30日。
ナナミが炬燵に脚を半分突っ込んで蜜柑を食べている。
その対角線上で「λに歯がない(*1)」と格闘する魚眠洞。
テレビは物真似大会を映しているようだ。
乾いた笑いがテレビ業界の衰退を暗示していた。
ナナミはゆっくりした動作で首だけ魚眠洞の方に向ける。
「あのさ魚眠洞」
「いい加減、勉強したら?」
林原めぐみのような声が響いた。
既に悟りを開いている魚眠洞の心は穏やかだ。
「一昨日はしてただろ」
落ち着いた発声で答える。
「勉強って毎日するもんだよ。大学生なら。東大生はさぁ」
ナナミは少し呆れた顔を作っている。
この女を雇っているのはこういう事を言わせるのが目的だろうか。
魚眠洞の頭を一瞬、そんな考えがよぎる。
「やる気って何処から発生すると思う?」
質問を返した。
ナナミは天井の方向を少し見つめて考えているようだ。
そして「うん」と呟いて魚眠洞を直視した。
「まず現実の壁にぶつかる」
「こうしたら上手くいく、っていう計算を頭の中でする」
「能力とか物とか、壁を越えるのに必要なモノを思い描く」
「それらを見つけるために動き出す気力が生じる」
「でしょ?」
ナナミは人差し指を立てて得意げな顔だ。
そんなに大した意見だとは思えない。
魚眠洞はわざとらしく深いため息をついて見せた。
この1年の穢れを全て吐き出してしまうかのように。
「UMAMIが無いとさ。動く気にならないよね」
ナナミは口角を持ち上げた。
そんな事は知っている、と言いたげであった。
「想像(シュミレート)すると良いよ。勉強する事は君にとってUMAMIがある事。
 ちょっと辛い事があって見失ってたけど、還る場所はちゃんとあるよ?」
ニコニコ笑いながらそう言った。
そうなのだろう、と魚眠洞の中の49パーセントは思っている。
だが残りの51パーセントは……。
「人は葛藤を経ないと大人になれないんだろうか」
魚眠洞は頭を抱え込んだ。
「まだ終わらない?ポスト・タイム・ザ・ウォー。戦後の戦争?」
「もう終わるよ。もう4年経った」
ナナミは座り直して魚眠洞と面と向かった。
「つまらない我執。それはきっと無くならないけど客観的に見る事はできるね。
 それを押し込めたって事は葛藤があったって事。なら頭の中で争いがあるのは当然だね」
「過程が問題かもな。ちゃんと話し合いで争いを解決できるインテリもいるだろう」
ナナミは顔を斜めにする。
「別に君はI君と較べてそこまで劣ってるわけじゃないと思うな。
 高学歴を得られなかったら人生は消化試合。そんな思想、さもしいと思うな。
 君にはそんな風になってほしくない。また別の道を通れば良いだけ。
 そして道は、この星の生き物の数だけ……」
「だったら素敵だねって話だよ」
ナナミは少し残念そうな顔をする。
「時が過ぎれば誰もが、大人になるの?」
エレカシの歌詞である。
「ならないね。低脳な犯罪者達を見てみろ。エイフェックス・ツイン(*2)の幼児性を見てみろよ」
「君は私だもん。ちゃんと見てるよ」
魚眠洞は鼻息を漏らして片目だけ開けてナナミの顔を射抜いた。
魚眠洞が魚眠洞という自我を保つ為に生み出した架空の人物、水無田無名身。
もう長い長い付き合いだ。
ずっと文句も言わずついてきてくれた。
その事については、有難かった。
「ナナミさ、俺が引っ込み思案なのは、還る場所が無いからだったんだ。
 いや、帰る場所かな。考えてみりゃ、当たり前だな。
 好きなだけ遊んでも、疲れて帰ってきたら、それを許してくれる存在みたいな。
 そういう場所、人が、俺にはいなかった」
「そうだね。私じゃそんな人になれないね」
ナナミの左目から、つうっと一筋、涙が零れ落ちた。
感度が高い女だ。都合の良さに関しては日本一だ。
「猿には作れない、脳内の友達だ。でもナナミ、いてくれて、有難うな」
目の前の女はニコッと微笑んで見せた。
プログラムされた笑いだったが、それが何だと言うのだ。
「イメージしてよ。還る場所をさ」
「ああ、そうよ。次に進む場所が俺の還る場所よ」
「でしょ?大学院だよ?最悪、浪人しても良いから、ベストを尽くそうよ」
ナナミは炬燵の上の次の蜜柑に手を伸ばした。
魚眠洞もつられて手を伸ばす。
するとナナミの隠れていない方の目がキラリと光って伸ばした手が魚眠洞の手を掴んだ。
「えへへ……」
面食らう魚眠洞の前でナナミははにかんで見せた。
「私の生きる目的は決まったよ。君に、君が私を生んだ事、後悔させない。
 良かったって思わせる。ゼッタイ。どんな手を使っても!」
魚眠洞は力が抜けて、くしゃっと笑った。
器用な生き物だ。日本人って。
自家製の宗教だ。人間の数千年の営みの一部。何も恥じる必要は無い。
魚眠洞の小さな信仰の対象は目の前の普通の女だ。
そして、その夜も更けていく。
魚眠洞の幸せなトリップは、きっと明日も繰り返されるのだろう。

*1「λに歯がない」森博嗣のミステリー小説。
*2「エイフェックス・ツイン」イギリスのテクノ・ミュージシャン。

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