「あー緊張するね。論文紹介。昨日は着替えずに寝ちゃうしストレス溜まってるよ」
洗面台で簡単な化粧をしながらナナミが言う。
「うー……決めた。発表前にオナニーしよう。それによって思考が鈍磨化され
どんな醜態にも耐えれるようになるだろう。作戦Fだ」
ナナミは頬を膨らませる。
「もうちょっと慎み持ってほしいって思う事があるよ」
さっさと身支度を整えた。
「さぁ、行こうよ」
そう言って、ドアを開けるナナミ。そそくさと魚眠洞も飛び出した。
自転車を出すのをナナミは横で待っていた。
「よーう!魚眠洞!」
大声がふいに轟く。
バイクの排気音と共に現れたのは深夜特急だった。
魚眠洞の青マフラーと対のオレンジのマフラーを巻いている。
「あ、ごめ、かまってる暇無いから」
手をあげてスルーするナナミの腰にワイヤーが一瞬で巻きついた。
「ちょっ!あっ!」
深夜特急はバイクから降りてワイヤーを自転車にくくりつけている。
「これ、あと15分で解けるから。お前は論文紹介頑張ってくれ。
手抜きしたら物理的に殺す。知ってるよな?その気になったら殺せる事」
ナナミの顔がカーッと赤くなる。
「……!ざっけないでよ!今日は魚眠洞の大事な日なんだよ!」
「だからお前がちゃんとしてれば関係ないって言ってんの」
深夜特急は魚眠洞の首根っこを引っ張り上げてバイクの荷台にチョコンと乗せた。
「ふざけないでよ!魚眠洞に何か悪い事したら私だってアンタを殺す!」
「いや別にィ〜?魚眠洞を風俗に連れてこうと思ってるだけだから」
「……!ダメダメダメダメダメダメダメダ〜メ〜!」
「お前、自分が消えるのが?」
深夜特急は最高に楽しそうに歯を剥き出しにした。
バイクが始動する。
涙目になって大暴れしながら深夜特急に向かって
中指を立てるナナミがどんどん小さくなっていった。
「よーう。久しぶりだな。二人で何かすんの。嫌だったんだろ?論文紹介」
深夜特急が魚眠洞の方を向く。
「まぁね〜。でもあんま苛めんなよアイツ。可愛いんだから」
「嫌じゃなさそうだなお前。まじぱねぇ」
深夜特急はカラカラ笑った。
30分くらい経っておばけ市内市街地の辺境の「エレメンタルブラスト」なる風俗店に着いた。
バイクを止めて店の前に立つ。
「なっ魚眠洞。俺はさ。ああ言ってるけどアイツを根っから否定したいわけじゃない。
それはお前を否定する事だからな。もちろん人間、否定を恐れて生きていくなんて
できないけど、せめて俺くらいはお前の味方でいたいと思ってる。
アイツだってお前の味方だろうけど癌にもなれる存在なんだ。分かるだろ?
だから依存を絶つ為の選択肢、方法を持っておいた方が良い。俺はそう思う」
魚眠洞は腕を組んだ。
「あーつまり素人童貞捨てたらナナミが消えるって本気で信じてるわけだ」
「そゆこと。って本気か本気じゃないかくらい分かってくれよ。長い付き合いじゃない」
「そーゆーお前はいつ消えるんだよ」
「お前に本当の友達ができた時に」
深夜特急の目の中に灯が点った。
信憑性は薄いが深夜特急とナナミが魚眠洞の前から消える条件が提示された。
「べべ……別にKもTも俺の本当の友達だろうがよ。大学も同じだし」
「本当にそう思ってるか?なら俺が消える条件はそうじゃないのかもしれない。
もちろんあの女も童貞捨てても消えないかもしれない。全ては仮説だな」
魚眠洞は顔を赤くして目を背けた。
それを見て深夜特急は破顔する。
「お前が俺を意識したのは、高校の頃、初めての小説書いた時からかな。
まあ始まりなんてどうでも良いけどな。皆すぐに忘れちまう。俺自体の事だって
そうで良い。忘れちまって良いんだぜ。俺は言わばお前の不幸の塊みたいな存在なんだから」
魚眠洞は苦笑する。
不幸の塊がどんどん人の形に変わっていくのか……。
「ずっとつっ立ってっと格好悪いぞ。入るぞ」
深夜特急が先を促した。
「あ、深夜、金は?」
「ああ、俺バイトしてるから。ほれ2万。一人1万」
「高いのか?」
「気にすんな」
受付で料金を支払って通路を案内される。
角を曲がると二つ椅子が置いてあって下着の女性が二人腰掛けて談笑していた。
「うおぉ……ブラジャーだぞ深夜。パンティーだぞ深夜」
「うろたえるなよ、ご主人様」
深夜特急が魚眠洞の背中をポンと叩く。
「あ、深夜特急。ホントに来たね」
トロンとした目のセミロングの女性が深夜特急に声をかける。
どうやら、あらかじめ来ると伝えられていたらしい。
隣のオレンジ髪をロングにした女性が首を傾げて魚眠洞を見た。
「ま、武運を祈るぞご主人様。こっから別だから」
深夜特急は声をかけてきた女と一緒に右の通路に行ってしまった。
オレンジ髪の女は魚眠洞にニコッと笑いかけた。
そのまま黙って左の通路の方に歩いていく。
常識的に考えてついて行くしかない。
奥の個室に入っていく。
洋風でベッドが一つ置いてある。なんと壁に冬目景のリトグラフが飾られていた。
柚原だ。
女はベッドの横の椅子に腰掛けた。
魚眠洞は手で示されてベッドに腰掛ける。
それから女は煙草にライターで火をつけて、ちょっと吸って煙を吐き出しニコッと笑う。
「聞いてるよ。青春が迷走してるんだね。魚眠洞君」
艶っぽい声でそう言った。
魚眠洞は照れくさくて頭をかいた。
「ですね。自分の頭の中だけで満足しちゃって、何の他者の侵入も無い。
だから成長が無いっていうのかな。誰も俺なんか相手にしてくれないんだ」
「深夜君は君が好きなんじゃないの?」
魚眠洞は俯く。
「アイツはプログラムなんです。俺を支える為に俺が作った抜け殻だ。
アイツが俺を変えてくれると信じた事もあった。でもやっぱ自分で変わらなきゃ駄目なんだ」
女は首を傾げる。
「アタシも大学生の頃はそんなもんだったよ。そこを抜けたらなんて事ない」
魚眠洞はハッとする。
「聞かれてないけど言うけどさ、アタシは京大農学部卒の森見桜子。源氏名じゃなくて本名。
桜子で通ってるけどね。知ってるよ。君の事。深夜のたった一人の親友魚眠洞。
一度全てを得た後、次の瞬間全てを失った男。
今は何の取り柄も無くて誰の興味も引かないの」
昔の魚眠洞なら「京大卒」という響きにもっとトキメキを覚えていただろう。
しかしその時は無風の水面のように静かな心を抱えて桜子と名乗った女の
毒気の無い表情を凝視していた。
たじろいでは駄目だと思った。
「なんだろう……誰かの面影を映して作った女の子、男の子、そういうモノと
コミュニケーションして生きていこうとしてるんだね。別に珍しい事じゃないね。
ひきこもり型の人間にはよくある事。その思い出、壊したくないってただ願ってる。うふふ……」
「深夜に何吹き込まれてるんですか」
魚眠洞はやっと切り返した。
桜子はオレンジの長い髪を指でくるくる回した。
魚眠洞はその瞳が真っ赤である事にやっと気づく。カラーコンタクトだろうか。
「京大卒だって?専攻は?」
「生理活性物質」
「なんでおばけ市にいるんすか?」
「実家が此処だから」
「なんで風俗に……」
「なんての?究極の接客業だからかなぁ?アタシさ、凄い寂しがりやなのね。
人とコミュニケーションとるの苦手なんだけど人と関われると凄い嬉しいの。
一人で寝れない日とかすっごい多いし。人に必要とされてるって感じたいって
いつも思ってる。分かんないかなァ?分かんないってソレ本当?」
桜子はまた首を傾げる。癖のようだ。
魚眠洞の内から怒りがフツフツと湧いてくる。
深夜特急が仕組んで目の前の女に会わせたと分かったからだ。
学歴コンプと過去の傷が癒え始めた魚眠洞にまた酷いショックを与え
ナナミを消す事が目的か?
入り口で見た深夜特急の悪気の無い笑顔が脳裏を掠める。
立ち上がった魚眠洞を桜子はニヤついて見ていた。
「知ってるよ。お父さんに近い内にこういう所に連れてきてもらう筈だったんだよね」
それで代わりに深夜特急が……。
何故そんな事を知っている?わけが分からない。
現実と虚構の境界線が曖昧になっていき、今は大学で授業を受けている
ナナミの事を想う。虚構の女。何の体臭も無い。その言葉は嘘だらけ。
魚眠洞の脳中の舞台に立つのは嘘偽りのサーカスだ。
「空想旅団」と名づけてやる。作詞作曲「空想旅団」。プロデュース魚眠洞。
では歌わせてもらおうか。
「生理活性物質だろ……」
「え?」
桜子が聞き返す。
「生理活性物質がアンタに寂しいって思わせてんだろ。知ってんだろ」
「あァまぁ……」
「それが『美しく調和のある人生』なのか?!」
「アンタは悟りを開く為に京大に行ったんじゃないのかよ!」
「俺は悟りを開けない道に入った!」
「もう世捨て人になる資格も無い!」
「アンタは時間と努力と精神力と、自由を交換したんだろ?!」
「もう煩悩という名の生理活性物質から解き放たれててもおかしくない!」
「いやそれが正しい!」
「何の為の帝国海軍……もとい京大かァアー!」
桜子はさすがに驚いた表情である。
「アハハ……暴走しちゃったみたいだねお客さん……」
「京大まで行って煩悩まみれのアンタなんかに煩悩を取り除いてもらう気は無い!
断じて無いのだァア!アンタのさもしい精神性を俺は見抜いた!もう一人で気高く生きていく!
俺達は坊さんになって解脱する為に生きてるんだ!」
腕を振り上げて魚眠洞は部屋の入り口まで歩いていった。
「待って待って!」
桜子が静止する。
いそいそと服を着ているようだ。
「駄目駄目。お金もらったのに何もしないで帰らないでよ。
これ、アタシの携帯番号」
桜子はクシャクシャの紙をポケットから取り出して魚眠洞に渡した。
「また会いましょ。外でも良いよ。でもさ、深夜が君をかまうの、
なんか分かったな。君まだ中二病治ってないからさ、変な拘りがあるんだと
思う。うん。そうね。そうに違いない。それ、溶けたらさ……」
そこで魚眠洞を真剣な眼差しが射抜く。
「友達になろうよ」
キュッと唇を上げた。
魚眠洞は嘘発見器を作動した。
とても嘘だとは思えない。
「その時は、俺の素人童貞もらってやってください」
スルスル言葉が漏れ出した。
「よおー!魚眠洞!どおだった?!」
深夜特急が通路に顔を出した。
「早いなオイ」
「俺を舐めるなよ」
「いや違うくねソレ?」
桜子の返事を聞かずに駆け出した。
二人で外に出て深呼吸する。
「お前、何もしなかっただろう」
深夜特急がニヤついて言った。
「お前本当にナナミ消す気あんの?」
数秒の沈黙の後、二人で大笑いした。
「へーちょッ!」
その頃、大学でナナミがクシャミしていたりした。