雲林院と平坂が仕事を始めてから2ヶ月が経過していた。二人は初めてのクリエイティブな仕事の中で時間を忘れていた。
農業法人ネイケフイケキロロの農場は奇怪な妖術により北海道の3分の1程の大きさを屋久島の小さな敷地の中に作り出していた。その辺の爺さん婆さんには小さな農場を経営している健気で可愛い農業法人に見えているらしい。
機械音痴の雲林院に代わり頭がイノセントで飲み込みの早い平坂が農機の扱いを覚えまくった。
身体はみるみるうちに浅黒く筋骨隆々に健康的になっていく。雲林院は賃金で日焼けサロンに通って体裁を整えた。
機械化された近代農業に触れる事で平坂はマクロな世界に深く関心を抱いたようだ。「遺伝子の顔なんてもう見たくねー!」とか叫んでいたのをある日の夕方、雲林院は聞いた。
雲林院はハウスの立ったまま作業できる苺園の管理を任された。地獄の門番で体と精神に障害を持っているルシュクルという女の子と作業する。
薄紫髪の彼女は酷く雲林院の関心をひいて「来て良かった」と彼は日に15回以上思った。しかし口が裂けても「(自主規制)萌え〜!」とは言えなかった。それが仁義だった。
毎日サンダーバードの如き超科学の産物の農機に乗って農作業に向かう平坂はずっとそうしていたいと思う感情にいつしか悩まされるようになった。地球上で最もクリエイティブな職業、農業。その確信。
だが平坂の我執がその考えを押し込めた。名を成すには、今の日本では……。
「小せェ……!」
平坂は自分に苛立ちを覚えるのを止めようとしなかった。自分は小さいのか、馬鹿なのか、優秀なのか、それともタダの偶然か? 判断する事ができなかった。
楽しいと思う事を素直にやれない矛盾。長年、バグった生物である人間を悩ませてきた最終命題の一つであるように思えた。
ヒトは「個」の意識が強いのだ。その事にもはやは疑いようはない。そういう進化の道を選んだタダの生物だ。偉くも卑しくもない。空を飛ぶ能力を持った鳥がまだそれほど繁栄していないように、人間の無駄な思考容量が生き残る為に有利に働くとは限らないからだ。
人は自分の中から外に出る事は一生無いし、ヒトという種から外に出る事はもっと有り得ない。坊さんは一生懸命我執を手懐けようとしているように見えるし、だから自分達も我執をコントロールする術を身につけるのが正しいのだと平坂は思う。
人間に生まれたのだから人間のルールに従わなければ。そういうゲームなのだ。
夕日がレタス農場を紅に染めていく。緩やかな時の流れの中で人間の生み出した自然の絶景を平坂は見る。手をかざしても太陽が眩しかった。農機のエンジンが無機質に体を断続的に振動させた。
脳の余裕か。他の種の管理か。面白い生き物だな。人間って。そう思った。そう思える事は本当のサイワイだろうと思う。年を経る毎に皮を被り、次第に内側の事を忘れていく。そんなシステムだ。ふと自分の父親が酪農をやっていた事を思い出す。
青春の迷い路を抜けるまでの道のり、まだまだ遠い。ルシュクルと乳繰り合う事に没頭する雲林院にとっても、まだまだ遠い。
その頃、森野は木曽山中に潜伏していた。急ごしらえの100パーセント天然素材のアジトの中で延々戦略をシュミレートする。初期の段階で本屋で買った「猿では絶対できないゲリラ・タクティクス」を熟読する。
「俺は猿じゃねェ……俺は猿じゃねェ……」
そうやって呟きながら山中にトラップを張り巡らせた。
来いよ一個師団!俺の戦略見せてやる! そう思って始終気を張り巡らせていた。
皆川洋一の策謀で此処まで逃げ遂せたが、既に警察は森野を追っているらしい。おばけ大学の名前を傷つけてしまったかもしれないのは申し訳なかったがそれ以上に雲林院と平坂が心配しているだろう事が気になった。
アイツラは俺に最高の信頼を置いているから俺に大役を任せたわけで……。アジトの奥には皆川唯の身体が安置してある。
俺だって俺のままで居たい……。ベトコン式の落とし穴に犬の糞を塗りながら考える。
俺を捨てるわけには絶対いけない。COOLでワイルドな森野詠史を! アボリジニー式の槍トラップに野兎がかかっていたので焼いて食いながら考える。
此処で我を失ったら此処まで築き上げてきた俺のシンパ達にソッポを向かれてしまう! 自分でしかけたグリーンベレー式の網トラップに宙吊りにされた状態で考える。
森野にとって我執とは空気のようなモノだった。
人間、極限状態に陥らないと本性を現さないものだ。雲林院と平坂と違って自分に自信を持っていた森野は地位や名誉や学歴に拘らなかったし友達もたくさん居た。
能力に恵まれた人間は人間の必須栄養素も知らないまま人生を終える事もある。そして、生物はソレで良いのだ。森野はそういう事を無意識下で、天然で分かっていた。
生まれもっての勝者。そのような人間が雲林院との繋がりを大事にしているのは、頭の中に不合理を持つ「人間」の性なのか……。
森野自身はもちろんそんな事全く考えていなくて、一緒に死線を乗り越え不思議な体験を潜った雲林院を本能の部分で大切にしていた。
それが普通の「トモダチ」だとは決して思わない。人間の関係は60億種類を軽く超えると森野は思う。そして自分達はその中でも最高の……なんて思うことも辞さない。そんな事思ってるなんて事は墓場に着くまで明かさないつもりだったが……。
その時、数羽の鳥が羽ばたく音が聞こえた。葉と葉が擦れ森野の神経をざらつかせる。神経で感じ取る。山のざわめきを。
来たのか! 俺の脅威! 犯罪者にはなれない! 雲林院の為に! アドレナリンが一気に放出され体中の筋肉が収縮する! 生きる為に生きてきた! それが思考する魚の本性!
脱兎の勢いでアジトに戻り皆川入りの寝袋を担ぎ上げる。心なしか少し重くなったような気がしたが緊張のせいだとすぐに思い込んだ。
鋭敏になった聴覚が危険を察知した。敵は……南南西から登ってくる! 雲林院、お前を犯罪者のトモダチにはさせねェ! そうなった時は、潔く「俺と」別れるぜ! 自決するぜ!
血流が異常に促進され顔が紅潮する。
「アーワワワワワワワワワワワ!」
インディアンの如く遠くまで吼えた。陽動作戦! 戦闘開始の合図だ。まず相手の数を把握する。
目標が反応を返すのが感じられ、森がざわめく。腰を低くして山を一気に下りる。
罠は山頂に近づくほど大掛かりなモノになっている。だがかかっても決して死なないように巧妙に細工してある。何故なら犯罪を犯さない為の戦いだからだ。おばけ大学の……いや、雲林院の顔に泥は塗れない。
目標に近づくと匍匐前進で茂みの中に入った。警官が二人居る。やり過ごして下山できるならソレが一番良い。
どうする……? どうする!? 脂汗がダラダラ流れてくる。
「FUCK・THE・POLICE!」
小さく呟いた。
「あはは……森野君、けっこう可愛い所あったんだね♪」
突然、背後から女の声が……。
「SHIT!」
瞬時で振り向く。諮ったか! 前方の二人はデコイ! なんたる失態! 森野詠史一生の不覚!
しかたない……! 全戦力をもって敵全員を無力化する!
目の焦点が前方の女に合う。って……! アレ?
「可愛いんだァ。荷物軽くなったの気づかなかった?」
皆川唯が立って喋っている。いつの間にか寝袋のジッパが開いている。
「先輩……? そんな……」
「みっしょん・こんぷりーとだよゥ♪森野君!」
茫然自失の森野である。その辺りで警官二人が森野と皆川に気づく。
「あっ! 君は! 重要参考人の男だな!」
「アレ? もう一人は……」
皆川がニコニコ笑って二人の方に駆けていった。弁明してくれているらしい。ガヤガヤ話し合っている。
数分後、警官の一人が森野の方にやって来る。
「署まで来てもらおうか。事情を聞かせてもらう。しかし今時駆け落ちかー。
面白い奴だな。君も」
どうやら二人で駆け落ちしていた事にされたらしい。そして大して深刻な事態にもなっていなかったらしい。何ヶ月も経っているのに。洋一の尽力のおかげか。
「森野君の面白い所、み〜つけた★」
皆川が一人明るさを振りまいていた。何があったんだ。雲林院もそうだったが一度死ぬと人格が変調するのか。
まァ、しかし、これで森野の小さな逃亡劇は終わりを迎える事になった。
爆発音が地獄の中の地獄に轟いた。天高くで七色の花火が炸裂する。
「原爆オナニ〜★」
氷魚が嬌声を上げる。
「おいおい氷魚。女の子。一応女の子よ。君は」
ゲルニカが突っ込みを入れる。
生命の樹は約半月に一度の割合で数十億の種を天高くに打ち上げるようだ。メテオラが何らかの方法でそれを突き止めた。地球と同じ広さを誇る天体「地獄」の全域の植生を回復させるのはまだまだ先だが……。
「そうだよね。原爆オナニーじゃないよね★子孫が残るわけだから」
「俺が言いたいのはそういう事じゃねェ!」
毎回のように手玉に取られる上司のゲルニカである。
ソードとメテオラは世界樹近辺の土壌に肥料を練りこんでいる。風見とイリスは無人ヘリを操作して大地に納豆樹脂を撒いている所だ。
「あれ? そういやゲルニカさん、ガスマスクしてないですね?」
氷魚が端正な顔を覗き込みながら言う。
「近づくなよ。まぁ、なんだ。上の奴が地獄を受け容れないと下も受け容れんだろ」
「ふーん? 中二病が治りかけですか? 不良青年が治りかけですか? さ、どーっちだ?」
ゲルニカがたじろぐ。どうもこの手合いは苦手なようだ。
「なんつーかな。俺も成長を止めた世界の番人だった。そしてそれに安住してた。それで一生を終えるんだってな。
でもお前ら見てて……まだ……やれる事があるんじゃないかって、やれるんじゃないかって、思った。
そういう事もあるのかもな」
曖昧な事を言う。天国の門番でトップに近い立場にいる男がこれだ。
「んー? 成長を止めた世界? ろくでもないな〜」
「そうさ。ろくでもない。ろくでもなかった」
ゲルニカは少し笑って生命の樹を見上げた。
「なんだろう。少し懐かしいな。この人は。なんだろう。
生まれる前に一度会った事があるみたいな……」
「その先は言わない方が良いですよ」
氷魚が口に人差し指を持っていく。
「話変わるけどお前そんなんで結婚する気あんの?」
少しおどけてみるゲルニカである。
「まっさかー! 私は女神なんてなれないまま生きるんですよ!」
満面の笑みの氷魚。なんだ……矛盾してるな……。苦笑い。
窒素固定細菌と共生する非マメ科植物は世界樹の足元に自生する事ができるようになっていた。まばらな緑が氷魚達の足元に。生命と酸素を生成する。
ゲルニカがマスクを外した理由は、本当に中二病の終わりなのか、未来に託した希望の為か、それとも……。
その瞬間にも回復の兆しを見せる植生は大地の鬱毒を吸出し、大気の組成を人間の大気のソレへと近づけていた。心なしか空気が透き通ってきたような気がする。そのうちオゾン層も修復されていくのだろう。
氷魚はう〜んと深呼吸する。
「始まったばかりですよ。ゲルニカさんも。雲林院君も」
誰にともなく呟いた。