もう何度目かの地震が地獄の中の地獄を揺らす。反応を返さないのはメテオラだけだ。心の振幅が小さいからだろうか。
3本の世界樹はぬかるんだ大地をゴソゴソと移動し大きな三角形の形に並んだ。
「不思議だな。不思議な生き物だ。この植物」
風見の感想。
「というかこの『地獄の中の地獄』自体が巨大な生き物みたいな」
イリスが「今頃気づいたのか」と言いたげな顔で風見を見ながら作業を続けている。
地獄の歴史はそれほど長くない。世界樹に関する知識もさほど蓄積されていない。前代の世界樹の事を知っているのはメテオラだけ。
それにしたって2回目の事なのでさほど対策が講じられるわけではなくて全てが手探り状態だ。
氷魚は三角形の中心の大地に掌をあてる。心臓が脈打つような巨大な大地のうねりが伝わってくる。
この大地は今まで他人に迷惑をかけながらも「死んでいた」わけではない。地獄の中の地獄は世界の基部の一つ。その消滅は世界の破滅を意味する……ものと思われる。
何年もの間、汚い有害物質をその土中に染み込ませ増幅させて大気中に放出していたこの無為なNEETのような大地はそれでも「生きていた」。何故? どうして?
「私達を生かす為なのか……」
いや、「何も考えていなかったら」死なないものなのか。そういう風に皆生き腐っている。考えない者は、生き腐る。
しかし考えるのがバグった生物、人間だ。とても自分達の生みの親だとは思えない荒廃した大地。できれば関わりたくない。
でも、「頑張ってほしい」。そんな感情が芽生える。親だからか。自分達の。
「どうだろうなァ〜!?」
その頃、皆川ともう一人の皆川は中生代のような環境に居た。むせ返るほどの暑さと目を覆うばかりの緑と遠くに見える奇妙な爬虫類の仲間。空がとても高い。
真っ暗闇の回廊が一瞬でドミノ倒しのようにこんな景色に変わってしまったのだ。まったく意味が分からない。ふざけてるとしか言いようがない。
「ねッ! ほら! お姉ちゃん! 後ろ見てみ!」
中学生の皆川が言うので後ろを振り返るとTレックスが皆川の匂いを嗅いでいた。皆川には何の感慨も湧かなかったが多少息が臭かった。目の前の動物は肉食だ。
「極道の人なのに随分まったりなさってるんだね」
そんな言葉を口に出した。
「駄目だよォ! こんな精神処女! 煮ても焼いても臭くって食えたもんじゃない★腐ってるんだよォ! 悪くなってるんだよォ! この人は! キャハハ★」
中学生の皆川が意外性の無い事を言う。
「確かにこりゃバージンの匂いだ」
Tレックスが低く呟いた。マジかよ……。いい加減勘弁してほしい皆川である。
「お前らでも地獄を思いついたんだ。昔の人はもっと緻密な地獄を思いついても不思議じゃない」
Tレックスは言った。意味不明だ。
「君さ、走れないでしょ? 死肉を貪るしか能が無いでしょ?」
中学生の皆川がくるくる回りながら言う。
「それが何さ。俺らの進化の限界さ。わかんねーかな? マイナーでオリジナリティのある奴が次の時代を作るのさ。そいつら全部じゃねーけどな。それが機械の遊び。まー始祖鳥とか哺乳類とかそこらへんの話だ」
Tレックスが牙を輝かせながら喋っている。
「マイナーでオリジナリティのある奴は戦争で死んじゃったよ。あたしゃ知ってるんだ。
人類の歴史は全部私の頭の中にある。いーや。全生物の歴史かもね」
「人類だァ? 雑食豚だろ? 最近脂肪率高いよな? 温暖化の前に過食の弊害で絶滅すると見たね俺は。
とにかく不味い。雑食は不味い。俺はキメラアントじゃねーんだよ」
中学の頃の皆川は回転を止めてニシシッと笑う。
「食わないで分かったような事を言う。君はBバージンなのかなァ?
騙されたと思って食べてみなよ! 私ミールカード・ホルダーだから食生活ちゃんとしてるよ★さっほら早くゥ!」
中学の頃の皆川はセーラー服を脱ぎ捨ててブラジャー姿になった。それを見てTレックスの目の色が変わる。
「オメェを食って氷河期を生き抜いてやる!」
一瞬でTレックスの頭がブレたと思ったら中学生の頃の皆川の上半身が消失してしまった。テラテラと厭らしく輝く赤身と骨が目につく。あァ、こりゃもうアカンわ。皆川は思って中生代の空を仰いだ。
青い鳥が飛んでいる。こんな古代にも鳥がいたんだ。こんな古代にも。それはだんだん大きくなって……。
「皆川ー!」
カフカだった。青空の彼方から飛んできた。
勢いを持ったまま着地する。10ヤードは地をすべる。キョトンとした皆川の前でカフカは肩で息をする。
ゼッ……ゼッ……ハッ……ハッ……。
カフカの腰には縄が巻かれていてそれが青空の彼方まで繋がっているようだ。
Tレックスは口をモグモグさせながら興味深そうに二人を見比べている。
皆川はだんまりだ。何を考えているのか本人にも分かっていない。
「皆川っ! お前さっ!」
カフカが一生懸命喋ろうとする。だが次の言葉が出てこない。皆川はじっと待っている。もう喋らないと決めてしまったかのようだ。
「俺さ! お前に……その……勝手に逝かれて……こんな……変な気持ちになった!」
皆川が首を傾げる。カフカの荒い息が収まってきた。
「オ……オセロやっててさ……気づいたら自分のコマが両面とも白になっちゃってたみたいな……。
水深1メートルのプールに潜水してて息がもたなくなったと思って上見たら……いつの間にか水深50メートルになってて自分はその底にいたみたいな……。
3年くらい毎日水やってたフリージアが実は造花だったってある日気づいたみたいな……。
自分の右胸に直径30センチの穴が開いたみたいな……。ポッカリ……。
嫌だ……。こんなに俺の表現力の無さを呪った事なんてねェよ。これが人に執着するって事なのかよォ!
俺は嘘なんかついたって一文の得にもなんねェんだぞ!
俺は無執だった! 『だった』んだよ! だから何も怖くなかった! 俺は無敵だった! だからNEETだった! 働いてる奴は弱者だと思ってた! そしてそれは正しかった!
……それが間違いになっちまった……。……お前のせいで……」
カフカが拳をきつく握り締める。感情の起伏は何かに固執している証だった。人間はその対象が何なのか計りかねる。
「なァ……『喪失』って感情……お前は知ってるかな……。
お前の喪失は緩やかだった。それを甘んじて受け容れられるほど、緩やかだった。
俺にもそれと似たような感情が芽生えたとしたら、その理由は何だ?」
畜生! 以前の俺を否定しないと! 俺は前に進めねェよ! くそ〜……」
気づくとTレックスの腹から昔の皆川の頭だけが突き出ていた。消化されかけの食物と血に塗れてひどく汚らしい。「良いねェ。青春だねェ★」とでも言いたげな顔をしている。皆川の冷静な部分もそう思っているかもしれない。
「処女膜だ。人間も外界との交わりを長く絶っていると心の処女膜が修復される。
膜があるんだぜ。お前の周りには。俺と交わってもなお。つまり俺とお前は本当の意味で交わっていない。そういう事だろう!」
物質的な処女膜はもうカフカによって除去されているわけだが。
「なんでお前がいなくなって謎の感情が湧いてくるのかわかんねー。何の感情なのかもわからねー。やたら……二文字がチラチラしてよォ……。
人間の文化に俺は知らない間に毒されていた! ろくなもんじゃねェ!」
そこでカフカはハッと気づく。皆川がポロポロ泣いている。その涙がやたらキラキラ輝いて見えて……。
カフカの中で火打石が激しく打ち合わされた。コイツには何か待ってる言葉がある!
「俺の中にいつからかお前がいた。その場所からお前は消えたんだ。
だから……俺は失ったんだ……。領有権を。俺の土地の。それはお前らが言う喪失って感情に似ている。つまり……。
俺はお前がいなくなって辛かったって事か……?
それを認める事は……今までの俺の否定かもしれないけど……。新しい俺の始まりでもある。
俺はお前が……大事みたいだ。好きみたいだ。皆川。ホントのホントに……。なんでだろうな? 難しい事はよく分からんわ……」
ゲボァッ! 昔の皆川が口から青い消化中の液体を吐き出した。
ゲボ吐きそう? 俺もだよ。まったく。なんでこうなっちまったのか……。
だが昔の皆川は満ち足りた表情をしている。「あなたは愛されている」ってか?
皆川とカフカの間にこれ以上ないくらい汚らしい昔の皆川。風情の欠片もない。まったくまったく。昔の皆川は「私はなーんも言わないよ★」と言いたげな顔で目を瞑っている。
ポロポロ泣き続ける皆川はまるで機械仕掛けのようだった。部屋のインテリアに使えそうだ。
哀しいのか? 嫌になったのか? 嬉しいのか? もっと残酷な絶望か? 自分がそんなに可哀想かよ! 皆川よォ!
「私はさ……」
やっと口を開いた皆川がトッと前にステップする。一瞬で距離が縮まる。あららら……。気づいたらカフカの肩に皆川の顎が置かれていた。
「最初からさ……」
カフカは再度覚醒する。
「わかた。みなまで言うな」
「うーん」
皆川が唸ったと同時に辺りが暗くなる。夜になった。そして夜空に無数の流星が……。それは物凄い勢いで地上を叩きつけた。
隕石だ。大地が轟音を轟かせ震える。辺りを爆風が吹き荒れた。
「うおァ! 皆川! 俺がァ! 次こそ本当にお前を非処女にしてやる!お前の心の処女膜を貫いてお前を立派な非処女に! 任せとけ!
お前は俺と関わるんだよ! ずっとずっと! お前とお前が別れるまでずーっと!」
「うん★」
皆川がカフカの背中をキュッと引き寄せた。
「過激だねェ! どうやら俺らの絶滅理由は隕石落下説で決まりみたいだ!
手塚ゾーンとかいうオチはねェよなコレ!」
Tレックスが雄叫びをあげた。大地の唸りと合わせて最高の音楽を奏でた。
「うおおお! 非処女・皆川の産声だ! 来い! 唯! こんな所で死んでられねェ!」
「うん! 君は!?」
皆川が昔の皆川の方を振り返る。昔の皆川は首をフルフルと振る。今まで見せた事が無いような愛らしい笑顔を見せた。
「また此処に来たくなったらいつでも来て良いよ。私は私の中にいる。私は私だ。そして何処へも行かない。そういう事だよ。お姉ちゃん。
昔の私は『昔の私』。『今の私』とは全く違う生き物。細胞的にもね」
皆川が名残惜しむような表情を見せるがカフカが肩を引き寄せる。
「明日が待ってるぜ。明日が」
そう言った。そうに違いない。皆川には明日がある。
皆川を負ぶったカフカは両足に力をこめた。
「絶対その手を離すなよ! 唯! 俺達ずっと一緒だ!」
「うん!」
「もう二度と離さねェ!」
昔の皆川はいつの間にか綺麗になっていてTレックスから這い出てきた。
「ブラボー! 頼むぜ! 新しい時代を始めてくれ! 死んでいく俺達の為にも!
お前らは俺達の新しい細胞だ! 世界は新陳代謝する!」
Tレックスが大声で吼えた。それと同時にカフカは飛び立った。夜空の彼方を目指して全速で飛んでいく。
降り注ぐ流星が大地を爆破で埋めていく。世界は破壊され、そして創造される。まさに世界の代謝だ。カフカも皆川も、代謝された。それが生きるって事だ。
雲を切って上を目指す。此処は昔からある場所だった。人類が生まれるよりずっとずっと前から。
雲を抜けると流星と恒星に満ちた天国のような世界が広がった。
「カフカさッ! 絶対私と出会って良かったって思うよ!」
背中で皆川が声をあげた。
「バッカ! もう思ってるよ!」
カフカが空笑いしながら言った。
本気で笑ったのはいつぶりだろう。
執着したから、俺は生きてるし、本気で笑えたのだろう。
カフカは思った。