登山ガイド無しでヒマラヤに登る雲林院と平坂は、山頂付近で道を見失ってしまった。本当は登山ガイドを雇えばよかったのだが、平坂がネパールの雑貨を大量に購入した為に金が無くなったのだ。
「水が尽きかけてますよ。雲林院先輩」
「ああ。お前の雑貨が無ければあと6リットルは持って来れただろうがな」
舞い上がる雪で二人の視界が次第に真っ白になっていく。ホワイトアウトだ。
「やっべえ先輩。このスペックで織田裕二と化しましたよ」
雲林院は笑えなかった。足に硬い感触。凍りついた昔の登山者だった。
「もう喋るな平坂。脳を生存本能の塊にするぞ」
「どうなんですか、それ」
最大の窮地にけっこう冷静な二人である。
それから先の事はよく思い出せない。山頂で悪魔のような雄叫びを二人であげた記憶が微かに残っているだけだ。
全ての体力を使い果たして下山した二人のもとにタテ社長からメールが届いた。
「ご苦労。次はスウェーデンから泳いで北極に渡ってもらおう」
そんな文面だった。
「雲林院先輩、最近太ったから泳ぐの得意なんじゃないですか」
平坂がそう言ったのを覚えている。
北極で白熊に襲われている時また社長からメールが届いた。
「ご苦労。次は日本海溝の底で古代の未確認飛行物体と戦ってほしい」
そんな文面だった。
「オルガナイザーG1が必要ですね」
平坂が生気を失った目をして呟いた。
日本海溝で光を当てられた事により復活したUFOは「あーもう面倒くせ」と大音量で言い放ちながら高速で宇宙へと飛び去った。平坂がついでに古代の海棲爬虫類を探そうとしたが雲林院が全力で阻止した。
船に上がってくるともうメールが届いていた。
「ご苦労。次は宇宙空間に3日間暴露される実験の実験動物になってもらう」
そんな文面だった。
その時は森野の工学部の友達にクマムシ型スウェット・スーツを作ってもらって切り抜けた。
その後はマゼランの世界一周航路をイカダでなぞったり、日本領海内のメタンハイドレートの掘削作業に従事したり、奄美大島のマングースを一夜にして壊滅させたり、京都府のハリネズミと話し合って日本を出て行ってもらったり、ヌートリアの大量繁殖に成功して旭川に放しまくって生態系を混乱させたり、アトランティス大陸に古代に棲息していた巨大な亀を宇宙船に閉じ込めて発射したり、ポスドク1万人計画の撤廃や金融危機の解消の一翼を担ったり、体内のアフラトキシンを解毒する化学物質を合成したりして、身も心もボロボロになった。
「でも就職活動の面接のネタにはなった感じですね」
太平洋の真ん中でイカダに乗ってリュウグウノツカイを釣っていた時に平坂が言った。雲林院は頬のこけた顔で無反応を返す。これが最後の試練だと少し前に社長から連絡があった。
そろそろ寝ないと死ぬんじゃないかと思った。目に深いクマができている。コクンと頭が下がる。限界が近い。それは平坂も同じだ。
「何の為に生きてるんでしたっけ……俺達……」
遠くを見ながら平坂が呟く。
「皆川先輩を助ける為だ……」
「そうやって単純化されていって……最後には『棒』になっちまうんですね。俺ら」
「高校の教科書にあったヤツか……。その方が幸せなんじゃねーかな?」
「年とりましたね。先輩も」
クックと二人で笑った。二人ともオッサンの顔に近づきつつある。かくも儚きかな人生。
「先輩を助けたら……いつか自分も助けてもらえるかもって期待してる節もあるかもな……」
「優しいシステムじゃないですか……思い込みが可能性を狭めていく。脳の処理量を減らしていく。合理化につぐ合理化。生きる目的なんて全て思い込みだ」
話がかみ合っていない。
「本当は先輩を抱きたがってるのかもな」
「ですね。そっち方面への方向性が俺らには欠落してる感じがしますね」
「性的魅力を獲得する為に俺達は上を目指し練磨されていく。いやリア充がか」
平坂が釣り針を上げた。なんと奇怪な深海魚がかかっていた。リュウグウノツカイではない。
「俺達も内に篭ってばかりいると、こーんな醜悪な浅瀬の皆と交われない化け物になっちまいますよ。生き物は環境に適応していくモノだから。
ツガイになる気がないんならそんな無駄なエネルギーは使われない。そのへんがバグった生物なのかな。
年中発情してたらもっと人口爆発して皆餓死してたかも。種保存の本能だ」
「無学だな。おめ。俺もだが」
平坂は深海魚を弄んでいる。意に介せず。
棒になった男か……。もともと棒じゃなかったんならもともと俺らは何だったんだ?
棒じゃない何かになる必要がある。そう言って俺の中の原始的な部分、ミトコンドリアとかそういうわけの分からない「名前すら無い」奇怪な化け物が急かす。
俺達の「本体」には「名前なんか無い」んじゃないか。幽霊みたいなモヤモヤした気配だけの存在が俺らを支配してる。皆川先輩を助けさせようと急かす。
いや皆川先輩を助けさせようとするのは後になってできた「思い込み」か? 考えてもしょうがない。それは。
「年をとるにつれて出来る事は減っていきますね……」
「んなこたーない。俺の尊敬するルシフェル先生は50歳くらいが一番フリーダムって……」
「ルシフェル……? その人どうせまた氷魚さんの友達なんじゃ……」
「小説家だ小説家。で、俺達は無限なのだ。完全にフリーダムなのだ。そういう風に生まれてきてるのだ。
『皆川先輩を助けたいと思う気持ち』は俺の内から湧いてきたモノなのだ。俺が発祥の地なのだ」
「本当にそうだったら素敵ですね」
「もっと言いたい事があるような気がする……」
平坂は深海魚を力の限り放り投げた。ボチャンとそこそこ近くで音がする。
「俺達、深海魚。出会いもなければ容貌も普通と違う。独自の生態系を持つが他人からは全く理解されていない。交尾の機会は極少。それでも哀しいなんて思った事無い」
後輩がボヤいていた。だから先輩との繋がりが大事なんだからしょうがない。
孤独者が二人居れば互いの孤独を愛おしがる。そういう感情は人間の伸びしろだと思う。
バグとは「暇」であり「余裕」である。それが次の進化への礎になってもならなくてもバグがある事自体に意味があるのだ。
また軸のない事を考えてる。でも、まあいっか。大学生だし。
その時、雲林院の携帯のバイブが震えた。メール着信。
「制限時間はあと30分」
社長からだった。もう遊んでるとしか思えない社長からだった。平坂の脳内で火打石がかち合わされ炎が燃え上がる。
「追い詰められた小動物の強さ! 見せてやるぜ!」
手早く釣り糸を垂らす。
「風情があるねえ。このワークも」
雲林院が暢気な事を言っていると当たりが来た。
「ゲェェットォォ!!!」
「なに九鬼ジュニアになってるんですか」
平坂の言は雲林院の聴覚を刺激しなかった。
「俺は棒じゃねェ! 意志力を持った人間を超えた人間、超人なのだァア!」
全身全霊の力で竿を引き上げる。確かな重さと共に喰らいついた生き物が海上に浮き上がる。体長2メートル。帯のような形状。それはリュウグウノツカイであった。
「ジョゼと虎と魚たち!」
平坂が歓声を上げる。
「グルグルやっほーい! これで就職できますよ俺ら!」
ドスンと音を立ててリュウグウノツカイがイカダの上に落ちる。魚類は無表情だがさぞや災難だろう。すぐにでもキャッチ&リリースしてやりたい。
「ブハーッ!」
突如として水中から人が顔を出した。
「おああああ!」
薄緑髪のカフカだった。すぐイカダに取り付く。
「やったなお前ら。これで就職だ」
ニコニコ笑われたが雲林院は解せない。
「なんでいなんでい! 俺らはアンタ等のできレースに付き合ってたのか!」
「まあ、そういうな。テレビ番組のコーナーで乗せられて告白したようなもんだ。
お前らがやってきた事は人間離れしてるぞ。流石プレイヤー、と言った所か」
「褒めても何も出ねーっすよ。あー、ちかれたァア」
カフカはポケットからカードを3枚取り出す。
「ほい、これ。農業法人ネイケフイケキロロの永久パス、3人分。雲林院と平坂と皆川の分。森野はさァ、必要ないだろ? アイツ」
二人はカードを受け取る。
「やった! これでフリーターにならずに済むぞ!」
「バーカ。胡散臭い内定一個もらっただけだ。お前もっとおばけ大学に誇り持てよな、平坂」
カフカはニヤニヤ笑うが何処か表情に影がある。
「あっ、ピーンと来ましたよ俺! カフカの兄貴! 地獄に皆川って人のアフター・ケアに行くべきですよ!」
カフカは図星をつかれてキョドる。
「だだだーってよぉ。俺は飄々と我関せずが売りのキャラじゃん?
そんな虎視眈々と抜かりなくガツガツしたのは違うんだよォ」
「馬鹿じゃないんですか。俺らの10分の1くらい努力してもらわないと困ります」
雲林院がカフカの両肩をガッと握る。
「俺らじゃ無理だ! 心の柔らかい部分の話はな! アンタ唯一人なんだ! 先輩を連れ返せるのは! 先輩にこの世への執着を取り戻させられるのは!」
カフカは頬をポリポリと掻く。
「ふひひ……俺もっと色んな意味でNEETで居たかった……」
「でしょうね」
「分かるっスよ」
カフカはショボンヌな状態になった。
「空気みたいなさ。皆が憧れるフリーダムさ。棒なんかじゃねーよ。存在しねーんだよ。足跡も質量も無い。コカ・コーラみたいに爽やかな生き物に……」
「でしょうね」
「分かるっスよ」
カフカはいよいよ引き下がれなくなった。
「……まァいいさ。お前らはもう心までは棒にならないだろう。外見はともかく。
なら俺も変わるのが、兄貴としての勤めかな……」
「そうっスよ」
「頑張ってください兄貴」
雲林院も「兄貴」と呼びだした。カフカは苦笑する。
「お前らはネイケフイケキロロで仕事してろ。森野の無事を祈りながらな。
俺は地獄に行ってくるわ」
「ラジャーっス! 兄貴!」
平坂が敬礼する。
「さてと!」
メリメリと音を立ててカフカの背中から翼長3メートルほどの鳥のような青い羽が生えてくる。雲林院と平坂の目が丸くなる。
「やっぱ人間じゃねェんだ! 飛べない鳥じゃなったんですね!」
平坂が感嘆する。
「そっ。『飛ばない鳥』だったわけ。NEETにも色々さ」
カフカはニヘラと笑う。
「青い鳥は……家に居た……」
雲林院が感心して呟く。
「んじゃま、行ってくらァ! 任せとけって! ポテンシャルは高い方だ!」
ビュンと風を切ってカフカは飛んで行ってしまった。青空の彼方に消え失せた。それと同時に社長からメールが届いた。
「良くやった。二人とも、すぐさま我々と地獄の最新技術を駆使したチート・ビジネスをやらないか?」
坊主頭が目に浮かぶ。
「棒だとしても地球っていう巨大な機械の一片だよな。無名として生きる覚悟か」
雲林院が呟く。
「そうだ。他の動物は皆、名前を持ってませんね」
平坂が眩しそうに目を細める。
太平洋の真ん中で考えた。
自分達の卑小な細々した事情とそれに翻弄される自分達の事を。取るに足らぬ存在達の事を。