農ネーム 第十一話「我執より気持ち悪い名前の無いモノ」

 イリスが世界樹の傍の大地に聴診器のような物を当てて耳をそばだてている。風見と氷魚とソードが固唾を飲んで見守る。
「駄目ですね。皆川唯、完全にロストしました」
 ふうっと氷魚が溜息をつく。
「中間界には私等は30分くらいしか入ってられないんだよ。風見先輩。
 現世で言う『深海』みたいな所だからね。そう。心の深海……」
「なるほど。で皆川は何処に行った? ロストしたんだろ?」
 風見の疑問。
「分かんないよ。現世の人が『宇宙』について知ってるのと同じくらいしか私達、門番も中間界について把握してない。研究者のモチベも現世ほどじゃないし……平均の話ね。やる人は凄くやってる。でも科学で皆でスクラムを組んで少しずつ進めていくモノでしょ? 私ら、そういうの苦手なんだ。  なーんて。こっちに来て数年の私が言うのはおかしいけどね。仲間じゃないよね。私は。  までも分からないからロマンがあるって見方もできる? だって天国や地獄の全てに筋が通ってたら本当に本当に地獄だと思うよ。『不合理』は私らのとって酸素みたいなもんだよ。ホントはそのものは毒なんだけど、生きるのには必要。雨が降ってると嫌だけど、雨が降らないと花は咲かないんだよ」
 だいぶ話がそれた。氷魚も苦笑する。
「なるほど。我らが最後の秘境、心の深海、中間界か」
 風見はうんうんと頷く。
「そっ。で皆川先輩はそれよりさらに奥に行ったかな。中間界のさらに裏側の世界、『無境界』……って新進の研究者は言ってるみたいだけど……。本当に何が起こるか分からない。リスクを冒すのはそれしか方法が見当たらないから。
 皆川先輩を今ある道具でネルネルネルネするしかなかった。だってこの世界全体のホメオスタシスってもんがあるんだよ。困った時は気まぐれに任せたら良いって思った事、今まで何回かありません? 私はいっつもそうだった。  命って狡猾なんだ。人間の脳に頼ってばかりでそんなに良い事なんてないと思う。だって一番大事な物は言語化できない所にあるから。全部運任せに生きるのがバグってない生き物のあるべき姿。元居た世界。神様の思し召しのままに……」
 風見は手を顎に持っていった。
「なるほどっ! 中間界のさらに深奥、無境界、ね! 全然イメージできないけど俺達が全く感知できない世界の事なんだろうな!  皆川の奴大丈夫かな?」
 氷魚はうっと詰まる。イリスが涼しい顔で皆の目を見て回っている。
「わかんない……」
 氷魚が申し訳なさそうに呟いた。ソードが笑いをかみ殺す。
「ふふ……今度の題材は決まりかなー? やっぱ異界ってオモスレー!」
 風見が言った。小説の題材の事を言っているらしい。
「違うんじゃないかな……人間の一番バグった部分が無境界……。そこから生み出されるのが種存続の道。  早かれ遅かれ何らかの理由で人間は岐路に立たされる。地球温暖化かもしれない。核戦争かもしれない。それらは過程であって大差ない。とにかくほとんどの人間は死に絶えるであろう。
 オーストラリアの増えすぎたウサギの話などを聞き及ぶ限り……」
 珍しくイリスがブツブツ独り言を喋っている。氷魚は同族を見つけた気になって嬉しがった。
「そうだね。何処が人間で何処が動物なのかよく分からないね。本質なんて物、ホントは無いのかもしれないね。ありのままが本性という見方もできる」
 イリスは氷魚を無視する。
「進化は退化じゃないし退化は進化じゃない。ただ、此処じゃない何処かに進むだけ。此処じゃない何処かに……」
 歌うように無表情な女は呟いた。あらら。つれないんだな。意気消沈の氷魚である。
「此処じゃない何処か……か……皆川も『探し物は何ですか?』状態なのかもな。人類全員多かれ少なかれそうなのかもしれんがな。  やっぱ多くは食物とか配偶者とかさぁ。ああ動物も同じだなそれじゃ」
 風見がやる気なさそうに言った。
「食べ物は大事だよね」
 イリスが言う。風見はふいをつかれてギョッとした。
「天国の改革のヒントになるかも。食物。農業。人間の根源。文化の最初。集落の、権利の、地位の源。  天国が腐ってるのは現世にはあった大事な栄養、生きる基盤みたいな物をゴッソリ忘れてきてるからだと思う。  なんでも現世の大事な物を取り入れる。それが私達の政治。やり方。世界にランクなんて無い。見習いあって皆で大きくなろう。それが正しい形。昔からある心」
 風見がイリスの久しぶりの長台詞に驚いている。
「何お前? もしかしてデレ期? あたァッ!」
 靴を思いっきり踏まれる。氷魚はクスッと笑って頼もしい天国の仲間を見やった。
 やれる!やれるぞ!とりあえず皆川先輩をどうにかしたら! そう思っていた。
「あのー、悪いんすけど新しい世界樹の為の土木工事とか施肥とか始めるんで手伝ってほしいっス。その為に来てもらった節もあるわけで……」
 朴訥なソードが割ってはいる。氷魚がハッと見やると少し離れた所でメテオラ老人が鍬を持って汗水を垂らしていた。
「いけないッ!」
「何がいけないだよアホ」
 風見が突っ込む。
「君もだよ」
 イリスがさらに突っ込む。
「オアっ!? 今の今の!そういうの人間的って言うんだぜイリス! ユーモア! ユーモア!」
 風見がはしゃぐ。
「分かったから……」
 イリスはしごく面倒くさそうだ。
 そういうわけで皆でそこそこ複雑な土木工事と術式を開始した。

 その頃の皆川は中学生の皆川と石ころを蹴りあいながら、宇宙のように黒い空間の中の白い舗装道路をずっと先の方まで歩いて行っていた。
 何故このような状況になったのか全く思い出せない。中学の頃の自分のいたいけなフルスマイルをヘラヘラ見ていて気づいたらこうなっていた。
 いたいけは隙だらけ。隙だらけとは好ましいと思う感情を生む。自分の事を好ましいと思えるのなら幸いだ。
「違うよ。自分の事なんて嫌いでも好きでもしょうがないよ」
 昔の皆川はそう言って石ころをコツンと蹴ってよこした。心を読まれたようだ。姿形は昔の皆川だが中身はモノノケだ。
「言葉の綾じゃない? よくJポップであるよ。自分をギュッと抱き締めてとか」
「覚えていない。私は昔はJポップ大っ嫌いだったんだヨ」
 ドキッとした。そういやそうだ。
「自分の変質。その観察。それが生きる理由の一つ。怖いでしょ? 気持ち悪いでしょ?
 生物に生まれて、残念だったねェ……。臭いしネバネバしてるし煮ても焼いても食べれないよ。『自分』なんて……。ねっ★過酷な運命だよぅ〜?」
 昔の皆川はしごく楽しそうに過激な事を口にする。
 私に何がさせたい? どう思わせたい? 皆川は思う。自問する。これは自問だ。
「私の事、鏡だと思ってる? ホントにそぉかなァ〜? もっと気持ち悪い物かもよ?」
 途端に昔の皆川の右目がボンッと弾けた。そこから巨大な肉の泡が次々と湧いてきて腐臭を発する。顔の5倍はあろうかという肉の奇怪な塊があらわれた。皆川は目を背けたくなる。
「鏡じゃないでしょー★君が生まれる前からいる君が私なんだよ。人間が生まれるずっとずっと前から私は君の中にいたんだ。
 愛される為にいたんじゃないヨ。ただ『いる』ためにいたんだ。
 君ごとき駕否定できる存在じゃないよ。私は。私はね、君の元彼がよく言っていたモノなんだヨ★」
 皆川はすぐに回答を思いつく。
「我執……?」
「ブッブーッ★もっともっと気持ち悪いモノだって!
 もっともっともーっと気持ち悪くって、あまりにも気持ち悪いから『名前が無い』の! スゴイでしょ★」
 皆川はう〜んと唸って石ころを蹴り返す。
「名前が無い……? 我執なのに……?」
「だからそんなんじゃないんだってェ〜★」
 ヒッヒと昔の皆川は笑う。ソレと同時に右目の醜い肉塊が弾けて緑色の粘っこい液体があたりに炸裂した。ピピッとそれは皆川の顔にかかった。
「どうだ! 顔射だッ! まいったか非処女! ひゃっひゃ!」
 ポケットからハンカチを取り出して液体を拭く皆川。目の前の正体不明の人物に対する恐怖は湧いてこない。こんな暗い道で二人きりなのに。
 それはやはり、目の前の生物が自分の一部だからだろうか。自分の事は好きでも嫌いでもしょうがないという道理。
 また蹴られてきた石ころを少し弄ぶ。先は見えない。少し疲れてきた。
 石を捨てれば、意思を捨てれば、道は終わる。暗闇が支配する。そして目の前の少女はずっとそこに在り続ける。そんな気がした。
 昔からある場所。心。それはとても気持ち悪い物だった。
「この石ころみたいな物だよ。私なんて」
 右目が真っ黒い空洞になった少女が呟く。
「そりゃ私の事を我執って呼ぶ人も居る。でも万物は『名前がついた時点で嘘になる』んだ。
 分かるでしょ? 君、『君の事、痛いくらい分かるよ』っていう嘘が見抜ける人でしょ? それが孤独な理由の一つではあるけど、それは得がたい感性だと私は思う。
 『分かった』なんて有り得ない。分かったと思った時点で誤解してる。言葉にすればさらに真実から遠のく。だから私は我執なんかじゃない。ゼンッゼン違うモノ。  で生き物が生まれた時から、いやもしかしたらそれより前から私は存在してた。君が死んだって君を支配し続けてる。醜い醜い万物の本性。気持ち悪いと思って蹴っ飛ばしてもすぐに何処かから飛んで帰ってくる。そういうモノ。  大事にした方が良いとか、そんな事言ってるんじゃないよ。私は……そう……君というちっぽけな入れ物を越えた存在だよ。宇宙と同じ。涙が出るくらい届かない存在。皆ソレを見て見ぬふりをしている。
 名前の無い私が君に自分の名前に拘らせ、苦しめ、そして殺した。
 私との付き合い方をもう一度考えるのも、一興かと思うけどな」
 最後の一言だけは自分へのアドバイスに聞こえた。またしても皆川の足元に石ころが帰ってくる。
「それを今此処で遠くに蹴っ飛ばして無くしてしまってもかまわない。
 私とずっと蹴りあいっこを続けるのも良い。どっちにするか……君が決めるんだよ」
 少女が立ち止まる。もう完全に「昔の皆川」なんてものじゃない。大昔からの勇壮なる大河の流れ。そんな感じ。
 少女は半分だけの顔でニコッと笑った。皆川も自然に柔和な笑みを浮かべる。そんな自分が嬉しかった。
 まだ笑える感情が残っていた。
 有難い。
 まだ残っていた。何かが。
 有難い。

 コツン。

 石を蹴った音が皆川の鼓膜を小さく震わせた。

挿絵3