農ネーム 第9話「地獄の植生」

 地獄の中の地獄。真っ赤な大地に絵の具を無茶苦茶に塗りたくったような汚い色の空。3本の巨大な世界樹。
 それを見上げる二人の男。樹木医メテオラと新入りの植物病理学者ミヤザワ・ソードだ。ソードは丸坊主の頭で白衣を着ている。多少朴訥な印象を受ける見た目だ。
 二人の足元には多種多様な植物が生えている。それは世界樹発生の副産物。その辺りだけは地獄の中の地獄という様子では全くない。メテオラは植物の種類、数を詳細に記録しているようだ。
 ソードは一つの世界樹に手を当てた。苔の生えた樹皮から鼓動が伝わる。小さな振動が重なってバイブのような力強さを持つ。以前のように言葉が混ざるわけでもなく、感じるのは、魂が修復されていっている事。ゆっくりではあるが、力強く。
 ソードはその手伝いをするが病気ってものは基本的に自己治癒力に頼っているのだ。
 神様が選んだ3人はまんざらではなかった。数ヵ月後にはきっとさらに逞しく……。
 それ以上に重要なのがこの地獄の中の地獄の植生の回復だ。死人しか生きられないこの過酷な大地に世界中は種を飛ばす。樹内で遺伝子を組み替え思うままに新品種を創りだし、最終的に「自分を生かす為に」地獄中に撒き散らす筈だ。
 それによって何が起こるか? ソードは身震いした。
 植物は地獄全土を覆い尽くし光合成を開始し二酸化炭素を酸素に変える。地獄の気温は下がり空が青くなる。淀んだ空気も一掃される。地獄の地下に存在する耐久卵が成育に適した環境を察知して孵化し昆虫、哺乳類、爬虫類の類が復活する。生態系が回り始め土壌は肥やされ、さらなる世界樹の発達が促される。
 それはつまり地獄の完全な変質。地獄のアイデンティティーの喪失? というか名前が変わるのだ。地獄は地獄でなくなる。
 それは先進? 後退? 変化は恐怖と痛みを伴う。それは何時だって同じ事。誰だって「今の自分」でバランスをとってるしその状態に不満でもそこそこの安定感は持っているんだ。坂の途中に引っ掛かってるボールみたいに……。
 でも油川氷魚は言ってた。この状態で満足してちゃ駄目だって。あの娘には「何か」が見えているんだろう。同じ現世出身のソードにも見えない「何か」を。
 なんだろう。劣っているとはあまり思わないが、氷魚が上に行く事は地獄の為になる、セカイの為になるのかな。そんな気はした。
 元気がない地獄の門番は多い。永遠の生が足枷になる。年をとった氷魚は今のように上を目指す心を保てるのだろうか。
 ソードは思う。見てみたい。氷魚の変化とそれに伴う自分とセカイの変化を。
「ふぅ……環境アセスメントは儂の仕事じゃないな。また人を雇うか」
 メテオラが呟いた。
「暇にしてる奴はいっぱいいますから、つれて来ますよ。このセカイは本当、この所、動いてない」
 ソードが言うとメテオラは低く笑った。不気味だ。自嘲の笑み?
「メテオラさんは4界の調子が今と違った頃を知ってるんですか?」
 問うてみた。メテオラは眼をつぶって唸る。
「知っている。地獄の中の地獄は地獄ではなく海だった。その頃は」
「海ィ?」
 面食らう。
「そんなわけないでしょ! 浅い所に埋まっている耐久卵はほとんど陸生生物の物だったじゃないすか」
「深い所に埋まっている耐久卵は水生生物の物だ。つまり、より昔の話だ。時満ちればやがて彼らも新たな生を享受する」
「ふにゃあ」
 だから何だってって話だけど嘘だとは思えない。
 ソードは水を満々と湛えた地獄を想像した。胸の底から快楽が湧いてきた。そうか。慣れ親しんだ地獄のような地獄は「嘘」だったのか。なら捨てる事もできるのかな……。
「生物学者も呼んだ方が良さそうですね。もう少し先の話ですが……」
「要はプレイヤーのイメージ次第だ。水を想像すればやがて地獄にも水が流入する」
 いまだに「プレイヤー」という制度が完全に把握できていないソードである。誰も詳しく教えてくれないからだ。「分からない事も大事」だと言っていたのは氷魚だ。
「まあ目下は4本目の世界樹の生育に備えた施肥と術式、場所の計算だな。情報によると3本の世界樹より大きな物になるらしい」
 メテオラはまだメモしながら言った。現世で営業みたいな事やってる氷魚達も楽しそうだなと思った。
 4人目のプレイヤーは女性。海のイメージ。植生回復にかなり影響を与えるであろう事は容易に推測できた。
「こやつらは受け入れ準備はできているようだ。いつもより笑顔だからな」
 メテオラが世界樹の方を向いて言った。
「笑顔……?」
 さすが一流の樹木医……?
 その時、大気が振動を始める。
 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ!
「おわっ! 何だ!?」
 ソードは驚いて尻餅をついた。耳を疑うような流麗な美しい旋律が鼓膜を震わせた。何が起こっているのか全く分からない。楽器による演奏に聞こえる。地獄に全く似つかわしくない天に向かって伸びるこの旋律は……。
「モーツアルト……?」
 ソードは後ずさりした。どう聴いても世界樹から聞こえてくる。大音量で。
「アイネ・クライネ・ナハトムジークだな」
 メテオラがクックと笑った。
 歌ってる……? 世界樹が……。何故? 何か嬉しいのか? やはり植物も生物なんだ……。
「同族を迎え入れようとしている……?」
「正確には……母親を待っている……だろうか……」
 母親……? 子供より後に生まれてくる母親? それが嬉しい? 嬉しがる? 生きてるのが嬉しいから生物は声を発する……?
 不思議だ……。不思議で怖い……。
「君を知ったその日から僕の地獄に音楽は絶えない……」
 ソードは現世の歌曲の一節を呟いた。

 沖縄。とあるヤンバルの森。
 即席のテントの中で皆川の入った寝袋の隣で森野が仰向けに寝ている。髭が伸びてバガボンドの武蔵のような様相を呈した。それもこれも皆川の為であって……。
「よおっ!」
 いきなりテントが開かれた。目をやるとカフカだった。妙にテカテカして元気そうだ。森野は退屈そうだ。
「何しに来たんですか」
「携帯電話の代わりになってやろうかって」
 本当に無力な人だ。NEETなのも分かる。
「雲林院はどうしてるって?」
「就職活動してるみたいだな。種苗会社、農業法人、食品会社を中心に受けてる」
 森野はハーッと息を吐き出す。
「休学してるのに食品会社とか無理だろ……」
 カフカはニパーッと笑った。
「じゃどんな手がある?」
 森野は目を少しカフカの方に向ける。
「自分で会社を興す」
 カフカはニヤニヤを崩さない。
「それ伝えてやろうか?」
「好きにしてくれ」
 森野はそう言うとゴロンと横になった。寝る気満々らしい。カフカはテントを後にした。
 3人が皆川の為に動いている事実が大事だと思った。何故なら執着は一つ限りなのだから。
 フワフワ漂うプランクトンみたいな存在はそう思って煙草に火をつけた。