皆川が死を覚悟した直後、世界が急停止した。ほとんど抵抗を受けず中学校の屋上に軟着陸する。
マジびびり入った皆川である。心臓の鼓動を抑えるのに気を集中する。
世界が滅茶苦茶だ……。死ぬって事は最悪で滅茶苦茶で容赦ない事なんだな……。今頃そんな冷静な考察をする。
深呼吸。深呼吸。この世はバリアフリー。だってこれ以上死にようが無いもの……。
死んだ後にも死ねるのかな……? 死のない世界ってある意味地獄じゃね?
「死ぬ」のも「生きる」のも同じくらい怖い事。つまり二つあった選択肢が一つに減る事。十二分に怖い事だ。
それだけリスキーな行動だったって事。賭けたのは自分のくだらない余生だ……。
「ひくっ……ひくっ……」
貯水槽の影からすすり泣く声が聞こえてきた。嫌な予感……。なんか聞き覚えのある声……。
そろそろ近寄っていくと中学生の油川氷魚が泣いていた。深く息を吐く。
「どうしたの?」
平静を装って話しかけた。クルッと振り向く氷魚。眼が真っ赤だ。今と違ってクマも無い。
「えぐっ……。貴方は誰ですか?」
うっ……迂闊だったか……。この世界の設定が分からない。
「み……皆島夜って言うOGなんだけど……」
氷魚が眼をゴシゴシこする。
「何でもないです。この世と身体の軋轢を感じて痛覚を感じただけです」
「ああ……そう……」
この年頃の子とは関わりたくないと一瞬で思った。
そこで気づくと氷魚が笑いをかみ殺している。
「あれ?」
「アハハ★大丈夫! 下に降りていってくださいよ!」
面食らう。なんだ? 中身は今の氷魚か?
さらに氷魚は嫌らしく笑う。
「貴方が理解してる事なんて私達の0.0000000001%だよ。それに縋りつく。誤解と錯覚と思い込みだけが頼りなんだ。哀れったらない。
信じられるのは自分だけなのに。他人に何を期待するの? 何も期待しちゃ駄目だよ!
それだけ覚えてたらきっと楽しく生きていけるよ! いつか交通事故で死ぬまで。戦闘機同士のドッグファイトで撃墜されるまで。私達は、それで良いんだよ……」
私達は、それで良いんだよ……。最後の一言が耳の奥にスッと入ってきた。目の前の女の正体なんてどうでも良くなった。
何が辛くて自殺したんだろう。世界が自分を無視したから。
此処で言う「世界」とは何だろう? 自分と「繋がり」を持った人の事だろうか。そんな気がする。
「地球」じゃないよ。「社会」じゃないよ。「人」だよ。
我々はミクロな存在だ。地球という一個の生物を構成する細胞。偶然で生じ、運命で消えていく存在。
それが悲しいと感じるなんて地球の芥としてバグってる。芥に意思が意味が目的があるわけもなし。
それで良いんだ。それが良いんだ。だから小さな事でクヨクヨするな。仏教がそう言っている。
目の前で正体不明の女がニコニコ笑っている。氷魚はこのすぐ後に両親を失ってしまう筈だ。
そして、その絶望から復帰したのか。この世界は絶望から復帰して帰ってくる価値がある場所なのか。
「氷魚ー! もう終わりだよー!」
扉が開くと同時に声が飛んできた。
「あっ。降りる必要無いまくりですね」
中学生の頃の皆川と海音寺蛍だった。蛍はポケーッと異世界人の大人の皆川を見ている。
「あれー? そちらは?」
すっとぼけた声を発する過去の皆川。今の皆川は苦笑する。どうしろと言うんだ。
「君、将来の夢とかある?」
とりあえず思いついた事を昔の自分に聞いてみる。
「いきなり何ですか。でもそうですね。環境を守る仕事をしたいです。それで歴史の教科書に載るような人になりたいですね」
知っている答えだった。よく知っている答えだった。
この「世界への執着」は数年後「どこぞのNEETへの執着」に変質してしまうのだ。
自分の方を向いてくれないカフカに絶望して自分は自殺した。むしろ振り向いてほしくて、かまってほしくて、自殺した。
歴史に傷跡を足跡を残そうとしていた自分は結局の所「世界」より「一人の人間」を選ぶ事となるのだ。
これは皆川の限界というよりむしろ人間の限界だろう。生物の限界だろう。地球の芥の限界だろう。満足するには神になるしかなかった。
何かを諦めないと生き永らえれない。それは皆同じ。人間の悲しいかどうかもよく分からない運命。
カフカの言うように硬化した自分の中心に立っていた大樹は折れたのかもしれない。柔らかければ、枝を犠牲にすれば、きっと生き永らえれた。未来に希望が見えるとするならソレも手だったのだろう。
海音寺がじぃっと今の皆川の瞳を見つめている。この娘はこれから程なくして自殺してしまうのだ。なんだか残念な娘ばかりだ、と思いたい所だが、素直に否定できない。月並みだが自殺する人の方が正常だと思う気持ちが少しあったから。
「後ろを向いたまま、明日の光が見えますか?」
蛍が口を開いた。そうかロストが好きか。自分も好きだ。
しかしさっきから妙だな。本当の過去に来たわけではない感じがする。
そこでドタドタと騒々しい足音が近づいてくる。
「氷魚ー! また泣いてんのかテメー! 茄子! カス! ナナフシ!」
「皆川先輩! 気流院先生が呼んでましたよ!」
雲林院と森野だった。二人は今の皆川を発見してウッとなる。
「やっべ! 時空混線中だ! 森野! 『大きな栗の木の下で』吹くぞ!」
「しゃーねーなったく」
森野はクラリネットを、雲林院はチューバを構える。
大きな栗のー木の下でー
貴方と私ー
仲良く遊びましょー
大きな栗のー木の下でー
物凄い笑顔でえんえんループする。なんだかいよいよおかしくなってきた。
氷魚と蛍がクスクス愛らしく笑っている。気がつくと昔の皆川が今の皆川の手を握っている。
「せめて私は裏切らないでくれませんか?」
ニコッと超級に愛らしく笑った。今の皆川は多少狼狽する。
「裏切るってどういう事でしょうか。ご自分でお決めになって。
私の審判は私。公正な判断ってそんなに偉いものでしょうか?
どんどんルールを作り変えてどんどん育って美味しい実を次の代に与えればよろしいんじゃありませんの?
変わっても良いんです。矛盾するようだけど、裏切っても良いと思いますよ。自分。ある意味ね。
そうそう……強いて言うなら『自分を忘れないで』かな?
『貴方と私』はどっちも皆川唯。落世中学吹奏楽部のお母さんですよ」
一陣の風が吹く。
そうか。
「私」は「私」に会いに来て、「私」と共に生きていって、いつも「私」と遊んでいるんだ。
「私」に執着しない「私」は生き永らえる事ができない。
カフカだってカフカに執着しているから生きてるんだ。
カフカが無執の人だなんて嘘っぱちだ。
そして皆川唯は「自分」だけの人間ではない。
カフカに執着したから死んだんだもの……。
気づくと蛍と氷魚と雲林院と森野がいなくなっていた。男二人の奏でる音楽だけがその場に残っている。
昔の皆川はポロポロ泣いていた。
「死んじゃ駄目だよ……お姉ちゃん……」
涙で顔がくしゃくしゃになっている。今の皆川もなんだか身体の芯が震えてきた。
会いたかった……。
会いたいのは昔の自分だった……。
衝動的に昔の自分を抱きしめた。触れる。喋れる。まだまだ。いつまでも。
「お姉ちゃん〜……」
「ごめん……」
気合入れて涙を流した。
斜め後方の天から重低音が響いてきた。大地の底から巨大な太鼓の音が聞こえてくる。
これは皆川の心臓の音。外界の音。身体を生かす。五感を満たす。
こんな所で立ち止まるために生まれてきたのか。
死は二人……自分と自分を分かつモノだ。まだ自分への罪滅ぼしが済んでない。託された仕事が済んでない。そうだろ?
身体の中心がマグマのような熱さを放ち始める。アゲアゲだ!
「私……君の事が好きみたいだよ」
格好つけて呟いた。
「私はお姉ちゃんが、だ〜いすき!」
昔の皆川が歌うように答えた。
生きても良いよ。
そんな声が胸の底から聞こえた気がした。