農ネーム 第6話「我執の女と無執の男」

 鏡都の森見公園のベンチに皆川とカフカが座っている。空は酷い曇天だ。今にも雨が降り出しそうである。早く降ってくれば良いのに。皆川は思った。
「屋久島に行ってきたんだ。去年の夏」
 口を開く。カフカは眉一つ動かさない。
「ああ、ちょっと行方不明になってたな。そういや」
 皆川は少し身を乗り出す。
「道具を使えば私の居場所なんてすぐ分かるんじゃない?」
「いや俺、地獄道具持たせてもらってねーし。ありゃ分かる事もあるけどさ」
 カフカはニヤニヤしている。堕落者達は自嘲的な笑いに関してはエキスパートだ。皆川はカフカのそんな所は自分にとって心地良いと思っている。
「どんな風に生きれば幸せになれるんだろうね。私、屋久島で久しぶりに本当の意味の呼吸ができた気がするよ。10年ぶりくらいに」
 カフカは煙を吐き出した。
「お前は中学時代を美化しすぎだと思うけど……それに単に場所を変えても根本は何も変わんねーだろ。勘違いだ。気のせいだ」
「気のせいだよね。『生きてる』事なんて気のせい。『死んでる』状態が我々の本来の姿」
 遠くを見つめる。カフカは少し違和感を感じ始めた。
「意識があるから我執が生じる。我執があるから自分が認められない苦しみが生じる。
 人間はLEMONedだ。不良品だ。だってその悩みが不合理だから。
 何故爬虫類のように生きられない? そして昆虫になって幸せならそれは逆進化だ」
「あーあー……」
 カフカは幼稚な物言いに嫌気がさしてきた。K大で落ちこぼれて、相変わらず可愛そうな女だ。
「君が我執我執って言うからさあ……」
「そうだよ執着するから悩むんだよ」
 少し語気を強めてみる。
「君は無執だろ。勝ちに拘らないから負けも無い。桃源郷でも見つけて自給自足してれば良いんだ」
 カフカはムッとする。
「お前は俺と話してんじゃねーだろ。桃源郷に憧れてんのはお前の一部だ。自給自足に憧れてんのは皆川だよ。知ってるんだ。俺は。お前の中の戦争はな」
 皆川は特に反応した様子は無い。カフカは身体の芯が熱を帯びるのを感じた。
「何、戦争って」
「お前の『我』と『無名として生きる覚悟』が戦ってんの。
 『無名として生きる覚悟』は初めからお前の中にあった。その火種に俺が風を送って火を大きくした。そうしないとお前の樹はいつか折れると思ったからな。人はよお、いつか急スピードで大人になんなきゃ駄目なんだよ」
 皆川はキョトンとする。不思議そうにカフカを見ている。
「俺は大人でもなんでもねーよ。ただのNEETだ。ただし人間じゃない。
 だから客観視の巨人だ! だから見えるぜ! お前の抱えてる問題が! 苦しみが! 我執を猛獣使いのように操れば良い。その方が楽に生きれるぜ。
 お前の言う通り人の生は生物としてもバグってるし生きてること自体もバグだ。意味なんてねー。なら楽にやり過ごすのが一番得だ。だろ? そうやってお前等人間の偉い坊さん達は……」
「何の為に生まれてきたの?」
 ペラペラ喋るカフカの声の中で皆川の声がポトンと跳ねた。いつか聞いた台詞。いつかっていうか2週間に一回はコレを言うんだこの女は。
「そんな事は自分で勝手に思い込めば良い。自分に都合の良い理由を作る。今までず〜っとそうしてきた筈だぜ。そのプロセスがあるから人は生き永らえれるんだ。
 そうだろ?もちろんほとんどは無意識様がやってるんだ。自分の動かす身体に最適の健闘をってな。
 ま、もう一回言うけど人間は生物としてバグってる。その辺は運が悪かったと諦めて少しは考える事を放棄するな。自分が生き残る為の最善の手を考えるんだ。それで良い。生きる為に生きるって言ったら息苦しく聞こえるか? 生まれた事に意味が無い事は分かるだろ? 分かってる筈だ」
 そこでニコッと笑う。
「知ってるよ。お前が分かってる事」
 地獄道具が無くてもな。客観視の巨人だから……。
 皆川も少し頬を緩ませた。しかし何処か気持ち悪い。
 カフカは寒気を覚えた。なんでこの女こんなに怖いんだろう……。カフカは毎度の事ながら不思議だった。
 皆川はそこで立ち上がる。カフカの眼の端に雨粒がピッと落ちてきた。 傘を持っていない。
「君は『人の生への執着』を過小評価してるよ」
 笑って言った。カフカの右手の甲にもう一粒雨が落ちてくる。
「死ぬとか生きるとかの話じゃなくて、『いかに楽に生きるか』っていう話をしてんだ」
 皆川の笑いが一層妖しくなる。
「私思うんだ。君に言われて思ったんだ。『我執』ってさ。私の身体そのものなんじゃないかな。捨てろって言われたら、手懐けろって言われたら身体ごと捨てちゃいたくなっちゃった。私だけじゃないと思うけど、そんなの関係ないね。私は私にしか会えないんだから。生まれてから死ぬまでさ。
 大脳の中のさ、神経細胞と神経細胞の間を彷徨って、ずーっと、で、私の一生は、オシマイ。ねっ。終わらせたくなったらいつでも終わらせれば良いじゃない」
 雨がノロノロと勢いを増していった。カフカは生唾を飲み込む。
「そういう奴は、いるよ。勢いで……さ……。油川氷魚だって、少しはそんな事考えた。でも其処がどん詰まりじゃねーよ。時間が解決してくれたり……例えば壁の方が勝手に崩れたり……迂回する気に自分がなったり……」
 カフカの弁がたどたどしくなる。皆川は笑顔を崩さない。
「君NEETだけどけっこう考えてるよね」
 事も無げに言った。カフカは一瞬でカッとなる。
「当たり前だ! お前等とは違うんだ!地獄生まれの地獄の門番! それが存在自体が無駄! ただの猿! そんなバグった生物の事に手を出してる! 興味が無いから把握も理解も正確だ! お前等はくだらねえ存在だ! その悩みはくだらないの二乗だ! いい加減ただの地球の芥に戻っとけよ! 俺をイラつかせんな! 俺はお前の事なんかどうでも良いんだよ! 最初からずーっと!」
 怒鳴り散らした。肩で息している。何故自分はこんな女にいつもすぐに熱くなるんだ。取るに足らない筈なのに。ただの水槽で飼ってる金魚な筈だ。馬鹿で馬鹿でしょうがなくて情も湧かない。同属にすら情を湧かせた事のないカフカだったが……。
 皆川の黒い瞳が何処までも続く防空壕のように見えた。何かの感情を遮断している。
 物質的に何度も近づいてきたが何処か心を開いていないのは二人とも同じだ。
 人間は解せない。バグだから。
 バグは何を起こすか分からないから厄介だ。
 バグと関わる必要があるバグであるところの人間。
 本当に同情するよな。カフカは思う。
 いつか、いつとは知らないけれど、きっとこの種族は自滅する。それまでの辛抱なんだ。プレイヤーという不合理な仕組みも改革されるだろう。
 それを思うと笑いがこみ上げてくる。興味のないオモチャ。捨てたほうが清々する。
 雨がシトシトと音を立てる。濡れた皆川の服が透けて肌が見えた。
「私もこの方が生きてるって感じがするな。異人種さん。ねっ」
 皆川の瞳孔が開く。カフカはギョッとして立ち上がった。
「何の憧れも幻想も無い。それはとても分かりやすい世界だね。
 綺麗って言えば良いのかな。汚いって言えば良いのかな。現実に近いって言えば良いのかな。ま、現実なんて幻想だけどね。
 異人種さん。君は確かに人間に近づく必要は全然無いね。私に近づく必要はない。仕事なんだよね。ずっと前から知ってるよ。私にも君の中の不合理が見えるよ」
 一呼吸置く。カフカは一歩後ずさりする。
 恐怖?
 なんで?
 不合理不合理不合理。俺の中の不合理。それを起こさせるのは取るに足らぬ人間の娘。こんな現象、許して良いのか?
「何の執着も持たない人間はこの世の舞台に上がる資格が無い!」
 皆川が悪鬼の形相で叫んだのと同時に雷が光った。
「うっく!」
 さらに後ずさりするカフカ。
 怖い……。人間は怖い……。
 だってこんなに……気持ち悪い事言うんだぜ……?
 なんで人の上の人にただの人が文句を言えるんだ?
 それに対して怯えるのは、何か感じる所があるからなのか……。
 雨が激しさを増してカフカの身体を打ちつける。皆川はクスクス暗く笑いながら……泣いていた。直感的にそう感じる。言う事言いながら目の前の女は自分に執着している。感情を残している。
「皆川……ごめ……」
「無執の人。君に会えて良かったなんて……一つも思わないからね」
 心臓を冷たい手で鷲掴みにされた。
 え……。
 何だコレ……何か始まってる……。
 その数瞬後、皆川はとびきり魅惑的に笑った。
「サヨナラ……」
 電子音みたいな声が響いた。
「あ……」
 皆川は背を向けてテクテク歩いていく。カフカは足が動かない。身体の芯から振動が伝わってきた。その正体が分からない。
 心穏やかでいられるように何に対しても執着しないように……。
 いや執着しないようにすらしていない。
 無執の人だった。今までずっと。
 喉の奥から嗚咽が這い上がってくる。
「う……ゴホン!ゴホン!」
 その場で背を丸めて咳をした。皆川の姿は既に雨のカーテンの先に掻き消えた。
「くそ……。顔が熱い……」
 ほっぺたに手を当ててみる。温い水の感触があった。
 アレ……? 何だコレ……。
 まさか……涙……?
「涙……? そんな馬鹿な……」
 身体が痛くもないし、煙が眼に沁みてもないのに……。おかしいな……。
 皆川の変な笑顔が脳裏に蘇る。それから真っ黒な闇が支配した。
 喪失……?
そんな漢字二字が頭に浮かんだ。
 雨がザーザー煩くて何も考える事ができなかった。

 翌日の昼頃までベンチに寝転がってホームレスみたいにボーッとしていてその間に皆川が自殺した事を知る。
 カフカは少し考えて彼女を蘇らせる事にした。自分の感情を自分で説明できなかったがそれは昨日から続いていた事だ。ビジネスの上でも正しい行動だ。
 そんな事どうでも良い……。
 カフカの中からそんな声が聞こえてきた。
 自分の中に「執着」が芽生えた……?
 くだらないオモチャへの……?
 そんな仮説に辿り着くのにそれほど時間はかからなかった。