農ネーム 第4話「柔らかい樹」

 ラブホテル「ジェロニモ」の一室に皆川とカフカがいる。
 皆川はベッドの上で仰向けでボーッとしている。衣服を身に着けていない。カフカはその横の椅子にだらしなく座ってスコッチを飲んでいる。目の焦点が合っていない。
 沈黙が長く続くが皆川はその間ゆっくり考え事をしていた。 皆川には前回カフカに会ってから気づいた事があった。カフカは皆川の人格ソノモノに興味があるわけではないという事。 ビジネスみたいな感覚だろうか。そんな感じ。
 そもそも出会いからして妙だった。迫害されて辞めさせられたK大ミステリー研の部屋に一人で居た時に勝手に入ってきた非学生。その後ろにボヤケタ奇妙なオーラを感じて皆川はすぐに興味を持った。
 とりとめもない事を1時間ばかし話した後カフカは言った。「また会いにきても良い?」と。急いでアドレスを交換しようとしたが携帯を日常的に持ち歩いていない事に気づく。その時にはカフカは消えていなくなっていた。扉が少し開いていて風でキイキイ音を立てていた
 心を生温い手で撫でられた感覚。それが良い事だとも悪い事だとも思えなかった。
 中学の頃はもっと無邪気でそんな感覚を得た事は無かった。一度人との交わりを絶って、もう一度帰ってきた場所は前来た場所とは別の場所だった。
 それは皆川の表面に垢のように堆積したセカイがそう感じさせただけかもしれない。頬が緩むのを止めたくて仕方なかった、そんな2年前の出来事。日本に世界に自分という存在に絶望しつつあった季節。
 それから2日後、カフカは皆川の部屋の前で煙草を燻らせていた。
「腹減らね? ラーメン食いに行かね?お前の奢りで」
 ケケッと笑って言った。
 右目から涙が出そうになったのですぐに後ろを向いて誤魔化した。迸る感情の濁流に論理的説明をつける事ができない。
 3秒頭の中からデータを検索した結果、「またセカイと繋がれるから嬉しいのでは?」という意見を出したが出した瞬間、そんなのとは全然違う事に気づく。「嬉しい」わけがない。それくらい自分で分かる。こんな事で嬉しがっていたらそれはその頃数年の自分自身に対しての明確な裏切りだと思った。
 自分だけは裏切りたくない。そんな小さなプライドのようなモノがその頃はあった。自分を裏切らない為に建設したキャリア、その日の皆川だったとも言えるかもしれない。
 その数瞬後に出た答えが「流れに身を委ねよう」というモノ。自分でもビックリするくらいパアッと綺麗に笑えた。カフカが眉を少し上げたのが見える。想定外の反応だと思っているのがクリアに見えた。
「行こっ」
 そう言って背を向けた。それで良いのかどうかは分からなかった。だがそうした。
 そして時間をかけてゆっくり奇天烈な話を聞かされるハメになるのだ。このセカイの裏側のもう一つ、いや、三つのセカイの存在。
 フルートの弟子の油川氷魚の就職先、地獄の門番。それらの情報が皆川に与えた影響は……残念ながら皆川には計算できない。それから2年間彼女を生き永らえさせたのがその情報、という見方もできるかもしれない。
 とにかく皆川は次第にカフカを求め始め、その道は交わる事となる。
 そう。始まりは、本当の本当の本当は皆川の一方的な欲求に起因していたのだ。理屈じゃなくてそう理解できる。勘ってヤツ。
 首を仰け反らせると大きな鏡に自分が映っているのが見えた。無価値なタンパク質と脂肪と水分の塊だ。
 無価値無価値断じて無価値。
 セカイは一人の人間を認めない。
 単なる地球の塵の一粒は「考えられる」という罰を与えられた。
 それはこの世に生まれた事に対するペナルティー。
 じゃあ何故産んだのか。セカイよ。
「皆川よー」
 カフカが口を開いた。首だけカフカの方に向ける。
「お前、だんだん不健康になってるぜ。俺がいるのに」
 ケケッと笑いながらオドケテ言った。クスッと笑ってみせる。
「アンタの存在は人間にとって有害。当たり前じゃない」
 カフカはクイッと酒を飲む。
「そうだなぁ。神は人の上に人を創ったんだものなあ」
 そう言って下を向いた後、含み笑いした。酔ってるな……。人間と変わらないじゃないか。
「でも君の存在が逆に人を救う事もあると思うな。なんだか優しくて温かい」
 皆川はそう言って目を閉じた。カフカは焦点の合わない目でベッドの上を捉える。
「お前を苦しめてるのは『我執』だよ。変な事教えられただろお前? 『人は自分の名前の為に生きてる』とか何とか。アレは邪教だってんだ」
「う〜ん。そうだっけ?」
 目を開けて首を傾げる。
「お前。俺は地獄で生まれた地獄の門番だ。氷魚と違ってエリートなんだぜ。エリートは志に生きるもんさ。だから教えてやる。
 名前なんかなあ、生物に必要なもんじゃねーよ。勘違いも甚だしい」
「そうかな? 名前が無いと凄く苦しいと思うな。私って何なんだろうとか思わない?」
 カフカは眼が充血してきた。
「其処を越えるんだよ! 無名として生きる覚悟を決めるんだ。
 それから社会に出ようぜ。セカイと交わろうぜ。生きるって事はセカイとの性交だ」
 皆川はうーんと考えだした。
「名前が認められるって事が性交成功って事じゃないの」
「あーもう。NEETに頭使わせんなよK大生」
 少し笑えた。
「あのな。お前は生物だ。生物とは何か? いい加減なモノだぜ生物は。
 残酷でいい加減で存在する事に意味は無い。プシュケ様だって存在する事に意味は無いんだ。だからもっといい加減に生きなきゃ考えなきゃ生き辛くなりお前の『死にたがり』は直らない。硬くなればなるほど折れるリスクが高まるぜ。
 お前の腹の底には光を切望する一本の大樹がある。そりゃ光を集める事も大事だがそれでリスクやストレスを高めまくればいつかメキメキと音を立ててその樹は折れる!光を集める事より先にその樹を柔らかくする事を考えろ! それが大人だ! イッチョマエだ! 死んだら何もかも終わりなんだよ!
 分かるだろ! 柔らかくなれば生き残れるんだよ!」
 それだけ一気にまくし立てた。ハアハアと荒く息をした。皆川は少し驚いている。そしてしばらくして儚く虚無的に哂った。
「君自身は私に死んでほしくないなんて思ってないでしょ?」
 カフカはドキッとする。心臓を掴まれた。冷や汗がブワッと全身に浮き出る
「私だけじゃないよ。君は誰にも執着してない。だからNEETでいられるんだ」
 魅惑的に笑い続ける皆川。
 首の後ろにベッタリ氷を当てられたような気になっているカフカは次の言葉を必死に探す。しかし答えまでの道のりが果てしなく遠い。暗闇の中を必死で走った。
 永遠のような数瞬の後、彼は悟る。その通り、自分にはセカイに対する執着が全く無いのだ。しかも皆川を理解しようと努めた事は一度も無い。セカイに対する執着が無いのは自分が地獄で生まれたから。そして地獄にすら執着しなかった。 流れに身を委ねていれば幸せでもなく不幸でもなかった。皆川にソレを言ったらおそらくこう言われる。「何の為に生きてるの?」と……。
 生きてる理由が無い男は目の前の女に一欠けらも執着する事ができなかった。だって初めは仕事だったしって言い訳する事はできる? 分からない。だって両親にすら執着してないから。自分はこの世で一人ぼっち。それが辛くない。目の前に同じように一人ぼっちでそれでいてソレを酷く哀しんでいる女がいるのに……。
 皆川は半身を起き上がらせてケタケタ笑いだした。一人ぼっちな事は哀しくない、でもこの状況に何かが感じられる……。カフカがそう思い始めた日だった。
 笑いながら泣いている皆川を見つめながら、何も言えずに黙っていた。人間に近づくという選択肢が、少しだけ目の端に映り、そして消えた。
 カフカにはやる気が無いのだ。生まれてからずっと。その自覚が小さな絶望の種。
 3面の鏡それぞれに皆川が映っている。4人の皆川が全員で空っぽなカフカを嘲り笑っているように見えた。

挿絵2