フォルテシモ第四十一話「子供たち」 日本。 O諸島。 最先端の生物化学の研究所がある。 その海岸。 澄み渡る空に綺麗な海。 ゴツゴツした岩場に金髪を一つに赤い紐で束ねた白衣にジーンズの女が腰かけている。 テレーゼ・シオンだ。 テレーゼは顔をうずめている。 時はゆっくりと流れていく。 人間にとって英雄的存在である彼女は自分の思い通りの研究環境を要求する権利があった。 テレーゼは後ろからだと泣いているように見える。 左手の薬指にエメラルドの指輪をはめている。 「今……どうしてる……?」 テレーゼは呟いた。 アシモは気鋭の生物化学研究者。 専門は人間のクローン。 天然パーマで栗毛色の髪。大きな眼鏡をかけていて 白衣の下にトックリセーターを着てジーンズをはいている。 最近赴任してきたばかりでボスのテレーゼのあまりの美しさに心を奪われっぱなしである。 「よし。今日中にこれを仕上げればテレーゼさんに褒めてもらえる筈だ……!」 アシモはやる気爆発、一心不乱に研究に没頭した。 ドアがノックされる。 「はい」 アシモが答える。 「テレーゼだけど」 ドッキー。 心臓が早鐘のように高鳴る。 畜生まだ成果が出てないぞ。 「どうぞ」 ドアが開く。 テレーゼの青い眼が現れる。 アシモはまだこの瞬間に慣れない。 呼吸が止まりその美しさだけをただただ追ってしまう。 テレーゼが息を吐くだけで心臓が脈打つ。 なんてこった。 研究ばっかの人生だったけど俺は…… 何か大事な物に再会したんじゃないか…… これは……なんという名前の感情だ? そうだ。この人はグレートマザー。太陽の化身なんだ。 そんな意味の分からない思いが頭を巡った。 「進んでる?」 テレーゼが言葉を発する。 「は……はひ!」 アシモがキョドる。 席を空け壁までさがる。 テレーゼが机を覗き込む。 「ふんふん……」 しばらくそんな事を呟く。 エマージェンシー! 畜生!押し倒してえ! なんて罪な美しさなんだ! 俺は!生物化学者である俺自身が! 生物だったんだ! より高等な人間とその何と言うかアレしたがる生物だったんだ! 今までの俺の人生は嘘っぱちだ! 俺はこの最強の女性の為に全てを尽くすぞシャラップ! アシモは頭の中が大混乱してきた。 いつもは冷静なのにな俺…… 自分の中の一番冷静な部分がボヤく。 「進んでるね。見込みあるよ君」 テレーゼが唐突に言った。 「は……はひ!」 やった!やったぜ! 見込みあるんだよ俺! 俺は世界一の幸せ者だ! 世界の価値の総体に俺は「見込みある」と言われたんだぜ! 生きてて良かった! 産まれてきて良かったよ! 俺は生まれてきた理由に気づいてゆく……! 俺は……この女性の一部になろう! 最高の絶対神の一部に……! その為に生まれてきたんだ俺は……! 今こそ俺の人生のエクスタシー! クライマックス! 「よーっす! 母上ー!」 その時いきなりドアが開いて子供が入ってきた。 アシモは妄想を急いでしまいこむ。 緑髪鬼太郎カットで前衛的な白地で黒い泡のような模様のついた服を着ている。 年齢は5歳くらいだろうか。 「なんだね君は。誰かのお子さんかな?」 アシモが言った。 「話し聞いてねーなオッサン。俺はそこの人の子供だぜ?」 少年は言った。 え……。 え……? 子供……? テ……テテテ……テレーゼ博士の……? それはおかしい。 おかしいぞ。 博士は今23歳…… こんな大きな子供が…… いるはずが…… 「こらネプト。粗相よ。ちゃんとご挨拶なさい」 テレーゼがネプトと呼ばれた少年をしかる。 「はいはい……俺、ビョウドウイン・ネプトって言います。以後よろしゅう」 ネプトはアシモに頭を下げた。 ば……馬鹿なぁ……! アシモの世界がガラガラと崩れていく。 俺……立ち直れるのか? 本気で自分が心配だ。 俺の……俺の世界を返せ! 「母上! 外に出よう! 俺カモメ捕まえるから見ててくれよ!」 ネプトが言った。 「はいはい……アシモ……その調子で頑張ってちょうだい。私、外に出てくるから」 テレーゼは言った。 「は……はひ!」 いまだに緊張の解けないアシモが言った。 二人はドアから出て行く。 アシモは一気に力が抜けた。 夢を……壊された……。 俺は……何のために……生きてきた……? アシモは椅子にへたりこんで頭を抱え込んだ。 「ジョナサンだ! 母上ジョナサンだ!」 「何よそれ」 「一番速いカモメはジョナサンなんだよ!」 ネプトがはしゃいでいる。 ネプトが足にぐっと力をこめる。 大気が緊張する。 ネプトの眼が鈍く緑に輝く。 「とうっ!」 超スピードで飛び出す。 はるか彼方の上空で目星をつけたカモメを素手で捕まえた。 「やったぜ母上!」 ネプトが叫ぶ。 テレーゼがニッコリと微笑む。 それとほぼ同時に海に落ちるネプト。 遠くでバシャッと小さく音が聞こえた。 ネプトの野生はこの島を出たがっている。 テレーゼは感じた。 血は争えない。 私だけじゃ、やっぱり駄目なのかな…… テレーゼは腰をおろして体育座りする。 顔をうずめる。 自分が何をしたいのか分からないよ…… 潮風が吹き抜ける。 ネプトが浮上してプーッと海水を吐いた。 4歳の時、ミナセは孤児院に私を迎えに来た。 初めはただただビックリした。 自分の父親だと言われてもピンとこなかった。 何?父親って。美味しいの? 私は思った。 でも成り行きでミナセと一緒に世界を旅して回ったんだ。 色んな人と触れ合い、色んな風景を見た。 何よりミナセの色んな表情を見る事ができた。 怒った顔。寂しそうな顔。意味分かんない顔。 意味分かんない顔のバリエーションが一番多い。 ミナセは不思議な人だった。 孤児院ではいつも浮いていた。 それは私の性格の問題だったかもしれない。 異常に発達した力の問題だったかもしれない。 とにかく、自分は人とは違うんだ、と何かをするたびに思い知らされた。 違うって事は、一人だって事だ。 私は一人でいる事を運命付けられていたんだと思う。 でもミナセは私以上に一人だった。 いつだって屈託なく笑っていたけど、私には見えた。 ミナセの深い深い哀しい孤独が。 私はいつでもそれを思うと涙が出てくる。 私の父親は、私より孤独で、だから私の孤独を許してくれるんだ。 私は自分の母親の事を聞いた事がある。 ミナシタ・ナナミ。 名前だけは教えてもらえた。 それ以上は何も語ってもらえなかった。 私もあきらめた。 ミナセが哀しそうだったから。 ミナセの為に何かしてあげたいと思った。 今は、ミナセの為に正しく強く成長する事がしてあげられる事だと思ってる。 陳腐だけど。 私って陳腐なんだ。 力のない自分が悔しいと思う。 私はいつだって剣を振る事で泣いてるんだ。 ミナセの孤独にたどり着く事はきっとできない。 月に手をのばすように、私は…… 深夜、砂漠で剣をふるいながらルナはそんな事を考えた。 眼を閉じて、涙がポロポロ零れ落ちる。 踊るように剣を振る。 自分は道化だ。 ミナセも道化だ。 ルナは思った。